大津市中学生いじめ自殺をめぐって

 私は、かつて、長年にわたって日高教、全教の顧問弁護士であったことがあり、今も大教祖の弁護団のひとりです。そんなこともあって、教育問題一般、いじめ問題には強い関心があります。

 そんな関わりも手伝って、大津市の中学生の自殺問題については、まずは、何よりも中学2年でいのちを断つことを余儀なくされた生徒の追いつめられた心境には想像を超えるやりきれない思いを禁ずることができません。

 生徒のまわりにいた人たち、両親、同級生、友人、大人たちが、生徒のSOSを敏感に察知し、手をさしのべることができなかったのか、割り切れない思いです。

 それにしても、直接最も身近にいたはずの教師は、どうしていたのか。
 まず、教師が子どもたちの様子ー身体はもちろん精神的にも、その背後にある生活環境までーを、日常的にこまかに観察し、わずかな異変ないし変化も見落とさない、そんな配慮が尽くされていれば、事態はまったく別の展開をみていたでしょう。
 ところが、生徒が「いじめ」を受けていた、暴力を振るわれた現場を見ても、単なる「けんか」として処理していたと報道されています。担任の教師や生活指導の教師を含めた会議はわずか15分に止まり、その報告を受けた校長もそれ以上の問題意識をもつことが無かったと言います。生徒の問題をめぐり、職員会議で、場合によっては深夜におよぶような議論を行う状況は見受けられません。教師が、多くの課題をかかえて超過勤務を余儀なくされ、文部科学省の通達で、職員会議が校長の一方的な指示伝達機関として位置づけられ、教育の課題や生徒の問題が校長を含めて白熱の議論の対象となることが、むしろ意図的に排斥される現状といわれます。

 また私が自分の子ども時代の経験も踏まえて思うのは、教師が生徒たちから、身近な存在、相談相手と受け止めていないのではないかという強い疑念です。私の、小学校、中学校、高等学校を通じて、私は担任の先生にさえも、自分から積極的になんらかの相談をした経験がないのです。一、二の先生は、貧しい生活の私に気を配ってくれたことを記憶しています。しかし、おそらく反抗期にあった私にとって多くの先生は、反発の対象でこそあれ、相談相手であるなどという存在として意識した記憶がないのです。
 このような私の経験は、私だけの特殊なものではなく、子どもたちに一般的なものではないかと思います。
 したがって、当該中学生が先生に相談しなかったことは不思議でなく、それにもかかわらず一度は泣いて相談をしたという報道は、中学生のいじめがどんなに深刻なものであったかを示しているのではないでしょうか。また一人の女子生徒が教師に訴えたという報道がありますが、教師や学校がこれらの訴えを受け止めて対応することが出来なかったことは、教師の勤務・過労状態、学校の管理主義の状態を前提しても、なお強い批判を禁ずることが出来ません。

 それにしても、「いじめ」とその結果自殺をもたらした悲惨な報道がなんどとなく繰り返されてきたにもかかわらず、同じ事態が繰り返されるのでしょうか。