「〔証言録〕海軍反省会」を読む

「〔証言録〕海軍反省会」を読む

小 林 保 夫(弁護士)

こんなことで戦争が始められてしまったのか、これでは、死者は死んでも死にきれないだろうーこれが私の率直な感想である。

1 NHKの放映とその衝撃

NHKは、2009年(平成21年)の8月9日、10日、11日の三夜にわたって、「日本海軍 400時間の証言」と題する放映をした。
第1回は「開戦 海軍あって国家なし」、第2回は「特攻 やましき沈黙」、そして第3回は「戦犯裁判 第二の戦争」であった。
  さらに後日、同じNHKで、これらの放映内容をめぐって、昭和史に詳しい半藤一利氏、「戦争へと至った昭和史の実相に迫るノンフィクションを著した業績」で朝日賞を受賞し、また「九条の会」の発起人の一人でもある沢地久枝さん、「〔証言録〕海軍反省会」の編集者の戸高一成氏の対談が行われた。
放映は、「山本五十六連合艦隊司令官は初めから太平洋戦争の開戦には反対であった」など、断片的には昭和史に関する知識として仄聞していた内容を含むものではあった。 しかし、日本海軍が、勝算はもちろんわずかな成算もないまま、真珠湾での奇襲攻撃によって開戦に踏み切り、敗戦を余儀なくされるに至った経過について、海軍中枢部の内部情報を踏まえた生々しい映像による系統的な放映に接すると、あらためて、多くの日本国民のみならず世界の諸国民が、長年にわたって戦争の惨禍に巻き込まれ、償うことの出来ない多大の無益な犠牲を強いられたことへの怒りを抑えることが出来なかった。

2「〔証言録〕海軍反省会」開催の経緯

この放映の台本・資料についてNHKに問い合わせると、旧海軍関係者による「海軍反省会」という会合名の、1980年(昭和55年)から少なくとも11年間にわたり、131回に上る証言記録の一部が、録音テープから起こされ、「〔証言録〕海軍反省会」(PHP研究所 516頁)として出版されていることを教えられた。
早速注文して入手した「証言録」は、大将から少尉までの海軍軍令部など海軍中枢にあって太平洋戦争の開戦・遂行にあたった関係者(発言者24名)が、ほとんど80歳から90歳にわたる高齢のなか、開戦・戦争遂行・敗戦についての「反省」と「責任」の自覚を踏まえて、真偽・歪曲の有無やその程度は別として、みずからの直接の体験・見聞・意見を赤裸々に述べたもので、きわめて興味深いものであった。
  この「証言録」は、初回から10回までの会合での証言を載録したものであるが、編集者によれば、証言記録の基本的な内容はほぼカバーされているとされ、実際「海軍反省会」という会合の意図やその基本的な内容を把握するにこと欠かないと思われる。
私は、毎年の恒例で、夏季の休暇を盆の供養と年老いた母のために、信州佐久の郷里で過ごすのであるが、今年の夏は、そこで、昼夜を分かたずこの「証言録」に没頭した。
具体的な内容は「証言録」に譲るとして、目次を挙げれば以下のような項目であった。
① 開催の趣旨ー反省会の意義・理由・運営方針
② 海軍の人事行政・教育問題
③ 艦隊決戦をめぐる問題
④ 機関科問題を徹底討論する
⑤ 陸海軍の体質・政治性の違いと開戦経緯をめぐる軍政官の責任
⑥ 教育訓練について考える
⑦ 教育訓練再考
⑧ 海軍の問題点を洗い出すには
⑨ 小委員会研究項目の検討
⑩ 野元総論
⑪ 資料

3「〔証言録〕海軍反省会」の証言内容

証言記録から、私の関心に添って、いくつかの引用をしたい。
〔〕内は、証言記録に付された見出しである。
引用した証言の各末尾の氏名・位階は、原記録に付されたものである。
また、私の引用は、必ずしも証言記録の順序に従ったものではない。

〔戦略軽視・戦闘重視の海軍教育〕
  「 今、お話があったように、長期戦でなくて短期でもって主力でドーンとやって、日本海海戦みたいなのをやれると思ってたんです。極端に言えば。」(野元為輝 少将)
「 私から見るとね、当時の情勢においてだよ、第一次大戦と若干違っているから、それも考えなきゃいかん。要するに国力の差でね、日本が長期戦に耐え得るかと、アメリカは急ぐ必要はないんだから。」(三代一就 大佐)
「あさはかだよ。」(三代一就 大佐)
 「 ・・・野村(吉三郎)大将が芝の水交会に来られてね、2時間ばかりしゃべった。その時のアメリカの国力っていうのはもう、自分なんか予想もできなほど偉大なものだと。あれはアメリカなんかと戦するなんていうのは途方もないと。それは昭和十年か十一年にこれを懇々といわれてたね。」(大井篤 大佐)
〔海軍大学は戦術・戦略中心の教育〕
「 ・・・高田さんの言うように日本海の海戦とか黄海の海戦とか、そんなチャンバラだけのことを戦史研究といって、それではあんまり大した芸当じゃないと思う。」(矢牧章 少将)
〔社会科学的な教育が欠如した日本の陸海軍〕
「 ・・・自然科学なり、精神科学なりを総合するのは社会科学でなければならないが、それが両軍(陸海軍ー引用者注)ともなかったと。
    ・・・
     それから後に、陸軍の内部でいろいろありましたけれども、陸軍自体が全体として右翼的な、精神主義的な、日本主義といいますか、日本精神主義といいますか、そういうものを育ててきた。その右翼というものと連絡をとって育ててきた。その右翼の一部は左翼になったり何かいろいろありますが、その社会思想といいますか、社会科学的な推移、トレンドであると思います。これが非常に大きい。その間に暴力というのが入り、三月事件、十月事件、五・一五というのは海軍が巻き込まれた。純心な者が、これはもうその空気に巻き込まれた事例だと思います。これで重臣を殺す、暴力ですから。先程出ましたね。私は知りませんけれども、その永野元帥であるとかいろいろの将星、偉い人達がその暴力的な背景に非常に流されておると思うんです。それに決然と立ち向かっていったのは、米内さんと山本五十六さん、その当時の直後です。矢牧さん、村田五郎というのがおったでしょう、警保局長。」(三代一就 大佐)
「 おった、おった。」(矢牧章 少将)
「 あれが言ったんですよ。私はね、自分が身をもって山本五十六を守ったんだ。これは何か、もういつやられるかわからない情況だった。そこらにもう非常に陰湿な陰鬱な暗雲が日本の全体にある。もう先入的にそこにあると。これは私は日本民族の背負った業と称しておるんですが、そこに持っていったのは陸軍。
    だから、、だれがどう言ったということはもう問題じゃないんだと思うんです、私は。その辺はもう重視しなくちゃいけない。・・・ 」(三代一就 大佐)
〔開戦の主張には明確な理由がなかった〕
「 海軍は、結局陸軍に引きずられて戦争に突入したと、こう言ってる訳なんですけれども・・・どちらかということでなくて、日本として、軍部として陸海軍が一緒になって戦争を始めた訳ですね。その戦争を始めた時には、結局それがベストな道だと思って突入した。ところがこういう結果になったのは、始めた時が色々な誤算があったんだろうとということ。例えば敵の戦力を過少評価したとか、或いは陸海軍を含めて、自分の力を過大評価したとか或いは、色んなことがあったと思います。今になって陸海軍を含めて、自分はこれが正しいと思って戦争したんだという、その理由が全然でてないんですね。そういう人の意見、なんで戦争を始めることがこの際ベストなんだという、その理由付け。それから、そういうことを海軍の開戦の時も陸軍によく聞いて、それは陸軍は間違いだぞと、それは敵の戦力を過少評価しているというような話し合いがあって、反省させることができなかったのか。そういうことを国民は知らないと思いますね。・・・」(本名進 少佐)
「 あの時は、勝つ見込みでなくはなく、負けない見込みでやったんですよ。
    ・・・
 そして東郷(茂徳)さんも、これは木戸さんも聞いたんですが、あの人たちはね、戦をしないでおけば日本は内乱になるぞと、こう思った。内乱になったら日本は元も子もなくなる。
それでどうなるかわからんけれども、判子押したっていうんですよ。これは木戸さんは判子押す立場じゃない、木戸さんはそいうこと知らない。彼らとしてはね、戦争勝つか負けるかということはそんなにわからん。で、若い連中は決定的にドイツが勝ってくれるとこう思ってるんです。それですからね、これは、ちょっとね、今は負けてしまってから、必ず負ける戦だっていう前提で我々、この話をしてるようですが、あの当時はそこまでははっきりしてなかったんですよ。」(大井篤 大佐)
〔開戦不可避ー負けるつもりで開戦したのか〕
「 永野さんはね、御前会議で勝つと言うたよ。勝つつもりだったよね。永野さんは。誰が勝つということを永野さんに説いたかだ。制空権、制海権のないところでね、上陸作戦はできないよ。」(保科善四郎 中将)
「それはですね、昭和十六年の末です。私が航空担当の人が足らん、人が足らんちゅうもんでら、そこで、十一月二十三日ですか、高松宮さんがですね、軍令部の一課に来られまして、そして私のアシスタントもなさった訳です。そこで、航空の現状をご説明申し上げた訳なんです。その時に私はですね、今の日本海軍の航空兵力ではですね、将来いかに頑張ってもですね、必ず負けますと、必ず残念ながら負ける他ありませんと、こう申し上げたらですね、早速高松の宮様が、陛下にお目にかかって、海軍としてはですね、戦争負けると、少なくとも航空に関しては勝てないんだと、こうおっしゃったんですね。陛下はどういうことかと、それなら永野を呼べということになって、永野さんが陛下のところに呼ばれた訳なんです。それで、陛下は、高松宮がこう言うんだがどうなんだと、と。永野は、それは大丈夫ですよ、そんなことはありませんと、言ってごまかしたんです。そういう人です。」
〔陸軍と右翼による内乱を避けるため海軍は開戦に応じた〕
「 大体ね、そういう状況だった。私はもう航空戦の見地からね、アメリカの援助を受けたイギリスがね非常に航空戦で強くなった、そしてドイツから攻めていっても防空力がある。それでこれはもうドイツはね、英国本土上陸作戦はできないと判断をした。そのうちアメリカが参戦するから、第一次世界大戦と同じ結果になるとというのがわしに判断で、そういうことに乗っちゃいかんと思った。それに対してね、終戦直後、富岡(定俊)さんと私がいっしょに永野元帥に会いに行ってね、なぜあなたは早めに戦争をやりますという決心をなさったか、と言ったらね、今大井さんが言ったのと同じことなんです。陸軍と右翼で内乱になると、そうすりゃ海軍は負ける、その結果どうなるかっていうと、数ヶ月後にね、もうこちらが開戦しても勝ち目がないような、初期の作戦さえ勝ち目がないような状況において戦争をはじめなきゃんらんということになっちゃ困るから、それより少しでも勝ち目がある時にやろうということでやったと言われた。」(三代一就 大佐)
永野修身大将をめぐる問題〕
「 わしは、永野さんが軍令部長の時にね、あの人に仕えたわけですけどもね、どうも、わしは感心しないですね。終戦後ね、土佐の人ですから、土佐の人辺りが、私なんか呼んでね、永野さんの伝記書くから、一つ手伝ってくれということ言われましたがね、はあっ、て簡単に聞き流してね、わしの方から言わなかった。どうもね、永野さんの印象が悪いのはね、真珠湾攻撃、それからミッドウエー作戦ね、両方とも、わしが反対しているのに関わらずね、そうか、山本(五十六)がそういうなら、山本が言うとおりにやらしてみようじゃないか。と、こういう指示でしょ。どういう訳で、お前達はそういう反対するんだとね、そういうことは全然聞かないですよ。そいうことやってる所には顔出したことないですからね。大雑把なことであんた、それ、平常の演習だったらいいでしょう。しかし、日本の国の運命を決めるような重大な作戦に対してね、そんな平時の演習でもやる時みたいなことを言ってね、真剣に考えないというような人はね、わしはもうだめだと、こういうやつだったから負けたんだというように、今、かんがえたいですな。」(三代一就 大佐)
〔開戦前後の永野元帥の責任を考える〕
「 ・・・どうしてこの戦争に『ああ、ああ、ああ』と言っておるうちに入ってしまったのか。第一に、アメリカに駐在しておった先輩の方々ですよ。あれはやっちゃいけないよ、と必ず言われるのに、そういう人は何をしておったかと。長谷川(清)さんだって。永野さんの如きは三年おったんですよ。しかも一九二一年と一九二二年にかけてあの時にはワシントンにおった人だ、永野さんなんて。そうしてジュネーブの会議があると、また永野さんが行くんだ。」(矢牧章 少将)
「 ・・・永野さんが、昭和十六年七月二十七日、仏印進駐にについて海軍省だけでイエスと言った訳ですよ。・・・その時に井上さんが質問している。その時に永野さんが何と言ったかというと、『海軍省、政府が戦をやれというからね』と、こういうふうに永野さんがおっしゃった。政府がやれというからねと言われた。そして井上さんが帰ってきて、政府がやれと言ったところで、軍令部でこれは戦にならないと思ったら、この戦はご破算にせんならん、と言うこと何故いわないんだろうか、言わなかったのだろうか。ということを言っておるんだね。井上さんともあろう方が、それ言うぐらいだったら、なぜそこで、どんどん詰めなかったのかと。井上さんの言われることなら筋は通るだろうから。・・・」(矢牧章 少将)
〔理想は一系、現実との妥協がうまくいかなかった〕
   「 ・・・わしの痛切に感じておりましたことはね、(海軍においてー引用者注)科学的観念が一般に欠けておったと、こういうふうに思うんですよ。・・・」(三代一就 大佐)
〔開戦の抑止力にならなかった井上大将〕
「 井上さんの航空本部長の時ですよ、井上さんの部屋に、古賀(峯一)さん、山本五十六さんが来て、十六年七月二十七日のことです。その時に、永野さんていうのは、あれで軍令部総長務まるかねって、古賀さんが一番先に言い出しますよ。そしたら山本さんは黙っとってね、古賀さんと二人で怒りだす。こういう状況で、それからまた別室へ来て、中攻千機、戦闘機(千機)が無ければ俺はできないよ、と、山本さんおっしゃるんですね。そういう空気もあった。・・・」(矢牧章 少将)
〔教育訓練の欠陥ー政治・防備を疎かにした海軍〕
「 僕はね、教育訓練に関してはこう思います。教育訓練は学校教育と艦隊教育訓練とあったろうと思うんですよ。海軍の教育で欠陥のあったと思うのはね、例えば海軍大学校、ここでは政治ということに対する研究が、ほとんどされていない。戦術、兵棋演習と図上演習ばっかりに重きを置いて、戦争をしたら世界各国にどういう影響を及ぼすとか、戦争は重大な問題であるとか、そういうふうなことに対する教育が海軍ではなかった。・・・
     海軍大学あたりでも、戦史の教育はあったけれども、あんまり第一流の教官がいなくて、一流の教官は戦術、戦略の方をやってた。海軍大学の教育っていうのは、政治がないもんだから。開戦なんかの場合にもそういう腹がないもんだから、ずるずると引きずられてやっちまう。陸軍の方でも、本当にバトルばかりだ。海軍っていうものがどんなに戦争に影響するのかっていうのを、ただ陸軍の奉天の会戦とか、或いはヨーロッパの戦のようなことばかりやっとって、アメリカ、イギリスと、そういうふうなものに対する戦略、全体的な判断というものを教育していない。」(寺崎隆治 大佐)
〔反省会のテーマ、大項目の提出ー議事進行・運営についての見直し〕
「 教育訓練という題目のようでございますので、まず政治にかかわらずと。これが一番今回の戦争においても、海軍の欠陥があったものだと私は確信しております。」(鈴木孝一 少佐)

4「〔証言録〕海軍反省会」をどう読むか(私の読み方)

「証言録」は、「反省会」に参加した関係者のそれぞれが、いずれも海軍中枢にあって、太平洋戦争に関わったみずからの直接の体験や見聞を証言し、これをめぐって議論を交わした記録である。
 したがって、「証言録」には、証言者みずからの関わりの正当化のための歪曲や誇張、秘匿部分があることも読み取れる。しかし、このような証言に対しては、しばしば厳しい追及や反論もあり、興味深い応酬が展開されたりするのである。
  そして、「証言録」は、これらの作為にもかかわらず、客観的あるいは結果的には、太平洋戦争の開戦や遂行における展望について、海軍・陸軍を含む支配層の大勢が科学的な認識に基づく成算を欠いていたこと、それにもかかわらず日本だけで230万人とも言われる大量の兵士の「消耗」をもたらし、いずれもほとんど失敗に終わった作戦や「特攻隊作戦」のような無責任・非人間的な対応に終始したこと、その結果日本を含むアメリカ・アジア諸国民に多大の戦争被害をもたらす結果になったことを浮かび上がらせている。
その全容については、前掲「証言録」に譲るとして、私のいくつかの感想・感慨を述べたい。
(1)日本の軍部を含む支配層の貧弱な知的・文化的水準 
私の読後感の第一は、事後的な観察ということにはなるであろうが、海軍中枢部を含む日本の支配層が、日本の戦争遂行能力について、いかに、理性的で冷静な認識・判断を欠いていたか、また戦争の終結についての具体的な展望・構想を持っていなかったか、それにもかかわらず開戦に異をとなえる勇気を持てなかったという痛切な感慨である。
海軍の中枢を含む支配層は、基礎的な知識を欠く部分や一部の狂信的な勢力は別として、しばしば引き合いに出される山本五十六に限らず、ほとんど誰も戦争の勝利はもちろん戦争遂行能力についてさえ確信はなく、懐疑的で、むしろ悲観的な考え方が多かったことが看取される。
たしかに、1930年代(昭和5年代)、特に陸軍の狂信的な集団によるテロが横行した政治・社会状況のなかで、生命を賭する勇気を持つことが至難であったとことは事実であろう(このような政治・社会状況は、それ自体日本の当時の全体としての知的・文化的水準の低さ、後進性を示していたといえるであろうが)。
   しかし、軍部のなかで、日本の戦争遂行能力について、客観的・理性的で冷静な認識を持ち、このような認識を組織化し、戦争を回避する努力を尽くすほどの勇気を持つことが出来なかった重要な原因の一つは、例えば海軍中枢を構成した指導層が学校的には「秀才」であったとはいえ、全体として、毅然として開戦を拒むほどの確信と大局的な判断を導くに足りる知的水準に至っていなかった点にあったといえないであろうか。
このような社会的な知的・文化的水準の低さは、軍部に限らず新聞・雑誌などのメデイアや国民一般にも言えることであったと考える。
当時のメデイアは、むしろ好戦的な報道と論評をこととし、国民に対するとともに支配層に対しても戦争熱を煽ったのである(「朝日新聞社「新聞と戦争」における報道人の反省を参照されたい)。
また国民一般も、日本共産党のように戦争の本質を見抜き、戦争に反対する少数の勢力や知識人はいたが、圧倒的多数の国民は、天皇・軍部独裁の抑圧体制のなかで、客観的な知識・情報を与えられず、メデイアに煽られ、戦争遂行に組織されていったのである。
(2)専制国家・軍部独裁国家の悲劇
「証言録」によれば、ほとんどの証言者が、太平洋戦争の開戦の当否・可否、戦争遂行における戦略・戦術の選択などについての軍部の判断の誤りを指摘しており、それは枚挙にいとまないほどである。
   このような事態は、何故招来されたか。
 ① 私は、さきにわが国における社会全体の知的・文化的水準の低さ・後進性をあげた。 そして、このような全体状況と不可分に関わっていることであろうが、とりわけ軍隊において際だっていたのは、そこでの民主主義の欠如→絶対的な上命下服の体制のもと、衆知を集め徹底的な分析・検討・方針決定を行う作風に欠け、少数の「エリート」(軍事学校「秀才」)による視野の狭い判断・決定の誤りであったのではないか。
   例えば、悪名高い辻政信瀬島龍三などは、30代で陸軍参謀本部で作戦指導を行っていた。そして多くの作戦で致命的な失敗を重ねたという(最近、田母神俊雄という人物が、憲法を無視する非常識な言動で社会的な指弾を浴びた。しかしその彼が、自衛隊という軍隊組織のなかでは航空自衛隊第29代航空幕僚長という枢要な地位を占めることが出来たのもその好例ではなかろうか。)。
② 加えて、わが国の戦前・戦時下は、おそらく天皇制(統帥権)と不可分であったであろうが、政府・軍部の誰も最終的な責任を取らない体制、無責任の体制であった。 その結果、いずれも、みずからが最終的な責任を引き受ける自覚を欠くこととなり、誤りを厳しく糺し、修正するという責任の自覚にともなう自律的作用が働かなかったのではないか。
   さらに戦前のわが国は、治安維持法による言論弾圧体制が全国に網の目のように張りめぐらされ、他方で政府・軍部による情報操作によって、国民は戦争に駆り立てられたのである。 
すなわち、一方で治安維持法のもと、特高警察・検察・裁判所等により、反戦的な言論に対する徹底的な弾圧を行い、他方国民の判断を誤らせる情報操作によって批判を抑圧した。その結果、社会的にも戦争政策に対する健全な批判による戦争の回避の展望が開かれる余地がなかったのである。
(3)真の戦争責任の自覚の欠如ー「証言録」の限界ー
「反省会」とは言いながら、「証言録」における証言には、開戦・戦争遂行についての証言者らを含む中枢部の責任論(敗戦責任)はあるが、国民や世界に対する加害責任、さらには平和・人道に対する責任の自覚を見出すことはできない。
それゆえ、「海軍反省会」に加わりながら、警察予備隊自衛隊の創設に指導的幹部として参加した少なからぬ関係者もいるのである。
したがって、「証言録」からは、憲法の精神、憲法9条の趣旨につながるような展望を見出すことは困難である。
「証言録」における「反省」の限界であろう。
     (2009年12月)