「〔証言録〕海軍反省会」を読む

「〔証言録〕海軍反省会」を読む

小 林 保 夫(弁護士)

こんなことで戦争が始められてしまったのか、これでは、死者は死んでも死にきれないだろうーこれが私の率直な感想である。

1 NHKの放映とその衝撃

NHKは、2009年(平成21年)の8月9日、10日、11日の三夜にわたって、「日本海軍 400時間の証言」と題する放映をした。
第1回は「開戦 海軍あって国家なし」、第2回は「特攻 やましき沈黙」、そして第3回は「戦犯裁判 第二の戦争」であった。
  さらに後日、同じNHKで、これらの放映内容をめぐって、昭和史に詳しい半藤一利氏、「戦争へと至った昭和史の実相に迫るノンフィクションを著した業績」で朝日賞を受賞し、また「九条の会」の発起人の一人でもある沢地久枝さん、「〔証言録〕海軍反省会」の編集者の戸高一成氏の対談が行われた。
放映は、「山本五十六連合艦隊司令官は初めから太平洋戦争の開戦には反対であった」など、断片的には昭和史に関する知識として仄聞していた内容を含むものではあった。 しかし、日本海軍が、勝算はもちろんわずかな成算もないまま、真珠湾での奇襲攻撃によって開戦に踏み切り、敗戦を余儀なくされるに至った経過について、海軍中枢部の内部情報を踏まえた生々しい映像による系統的な放映に接すると、あらためて、多くの日本国民のみならず世界の諸国民が、長年にわたって戦争の惨禍に巻き込まれ、償うことの出来ない多大の無益な犠牲を強いられたことへの怒りを抑えることが出来なかった。

2「〔証言録〕海軍反省会」開催の経緯

この放映の台本・資料についてNHKに問い合わせると、旧海軍関係者による「海軍反省会」という会合名の、1980年(昭和55年)から少なくとも11年間にわたり、131回に上る証言記録の一部が、録音テープから起こされ、「〔証言録〕海軍反省会」(PHP研究所 516頁)として出版されていることを教えられた。
早速注文して入手した「証言録」は、大将から少尉までの海軍軍令部など海軍中枢にあって太平洋戦争の開戦・遂行にあたった関係者(発言者24名)が、ほとんど80歳から90歳にわたる高齢のなか、開戦・戦争遂行・敗戦についての「反省」と「責任」の自覚を踏まえて、真偽・歪曲の有無やその程度は別として、みずからの直接の体験・見聞・意見を赤裸々に述べたもので、きわめて興味深いものであった。
  この「証言録」は、初回から10回までの会合での証言を載録したものであるが、編集者によれば、証言記録の基本的な内容はほぼカバーされているとされ、実際「海軍反省会」という会合の意図やその基本的な内容を把握するにこと欠かないと思われる。
私は、毎年の恒例で、夏季の休暇を盆の供養と年老いた母のために、信州佐久の郷里で過ごすのであるが、今年の夏は、そこで、昼夜を分かたずこの「証言録」に没頭した。
具体的な内容は「証言録」に譲るとして、目次を挙げれば以下のような項目であった。
① 開催の趣旨ー反省会の意義・理由・運営方針
② 海軍の人事行政・教育問題
③ 艦隊決戦をめぐる問題
④ 機関科問題を徹底討論する
⑤ 陸海軍の体質・政治性の違いと開戦経緯をめぐる軍政官の責任
⑥ 教育訓練について考える
⑦ 教育訓練再考
⑧ 海軍の問題点を洗い出すには
⑨ 小委員会研究項目の検討
⑩ 野元総論
⑪ 資料

3「〔証言録〕海軍反省会」の証言内容

証言記録から、私の関心に添って、いくつかの引用をしたい。
〔〕内は、証言記録に付された見出しである。
引用した証言の各末尾の氏名・位階は、原記録に付されたものである。
また、私の引用は、必ずしも証言記録の順序に従ったものではない。

〔戦略軽視・戦闘重視の海軍教育〕
  「 今、お話があったように、長期戦でなくて短期でもって主力でドーンとやって、日本海海戦みたいなのをやれると思ってたんです。極端に言えば。」(野元為輝 少将)
「 私から見るとね、当時の情勢においてだよ、第一次大戦と若干違っているから、それも考えなきゃいかん。要するに国力の差でね、日本が長期戦に耐え得るかと、アメリカは急ぐ必要はないんだから。」(三代一就 大佐)
「あさはかだよ。」(三代一就 大佐)
 「 ・・・野村(吉三郎)大将が芝の水交会に来られてね、2時間ばかりしゃべった。その時のアメリカの国力っていうのはもう、自分なんか予想もできなほど偉大なものだと。あれはアメリカなんかと戦するなんていうのは途方もないと。それは昭和十年か十一年にこれを懇々といわれてたね。」(大井篤 大佐)
〔海軍大学は戦術・戦略中心の教育〕
「 ・・・高田さんの言うように日本海の海戦とか黄海の海戦とか、そんなチャンバラだけのことを戦史研究といって、それではあんまり大した芸当じゃないと思う。」(矢牧章 少将)
〔社会科学的な教育が欠如した日本の陸海軍〕
「 ・・・自然科学なり、精神科学なりを総合するのは社会科学でなければならないが、それが両軍(陸海軍ー引用者注)ともなかったと。
    ・・・
     それから後に、陸軍の内部でいろいろありましたけれども、陸軍自体が全体として右翼的な、精神主義的な、日本主義といいますか、日本精神主義といいますか、そういうものを育ててきた。その右翼というものと連絡をとって育ててきた。その右翼の一部は左翼になったり何かいろいろありますが、その社会思想といいますか、社会科学的な推移、トレンドであると思います。これが非常に大きい。その間に暴力というのが入り、三月事件、十月事件、五・一五というのは海軍が巻き込まれた。純心な者が、これはもうその空気に巻き込まれた事例だと思います。これで重臣を殺す、暴力ですから。先程出ましたね。私は知りませんけれども、その永野元帥であるとかいろいろの将星、偉い人達がその暴力的な背景に非常に流されておると思うんです。それに決然と立ち向かっていったのは、米内さんと山本五十六さん、その当時の直後です。矢牧さん、村田五郎というのがおったでしょう、警保局長。」(三代一就 大佐)
「 おった、おった。」(矢牧章 少将)
「 あれが言ったんですよ。私はね、自分が身をもって山本五十六を守ったんだ。これは何か、もういつやられるかわからない情況だった。そこらにもう非常に陰湿な陰鬱な暗雲が日本の全体にある。もう先入的にそこにあると。これは私は日本民族の背負った業と称しておるんですが、そこに持っていったのは陸軍。
    だから、、だれがどう言ったということはもう問題じゃないんだと思うんです、私は。その辺はもう重視しなくちゃいけない。・・・ 」(三代一就 大佐)
〔開戦の主張には明確な理由がなかった〕
「 海軍は、結局陸軍に引きずられて戦争に突入したと、こう言ってる訳なんですけれども・・・どちらかということでなくて、日本として、軍部として陸海軍が一緒になって戦争を始めた訳ですね。その戦争を始めた時には、結局それがベストな道だと思って突入した。ところがこういう結果になったのは、始めた時が色々な誤算があったんだろうとということ。例えば敵の戦力を過少評価したとか、或いは陸海軍を含めて、自分の力を過大評価したとか或いは、色んなことがあったと思います。今になって陸海軍を含めて、自分はこれが正しいと思って戦争したんだという、その理由が全然でてないんですね。そういう人の意見、なんで戦争を始めることがこの際ベストなんだという、その理由付け。それから、そういうことを海軍の開戦の時も陸軍によく聞いて、それは陸軍は間違いだぞと、それは敵の戦力を過少評価しているというような話し合いがあって、反省させることができなかったのか。そういうことを国民は知らないと思いますね。・・・」(本名進 少佐)
「 あの時は、勝つ見込みでなくはなく、負けない見込みでやったんですよ。
    ・・・
 そして東郷(茂徳)さんも、これは木戸さんも聞いたんですが、あの人たちはね、戦をしないでおけば日本は内乱になるぞと、こう思った。内乱になったら日本は元も子もなくなる。
それでどうなるかわからんけれども、判子押したっていうんですよ。これは木戸さんは判子押す立場じゃない、木戸さんはそいうこと知らない。彼らとしてはね、戦争勝つか負けるかということはそんなにわからん。で、若い連中は決定的にドイツが勝ってくれるとこう思ってるんです。それですからね、これは、ちょっとね、今は負けてしまってから、必ず負ける戦だっていう前提で我々、この話をしてるようですが、あの当時はそこまでははっきりしてなかったんですよ。」(大井篤 大佐)
〔開戦不可避ー負けるつもりで開戦したのか〕
「 永野さんはね、御前会議で勝つと言うたよ。勝つつもりだったよね。永野さんは。誰が勝つということを永野さんに説いたかだ。制空権、制海権のないところでね、上陸作戦はできないよ。」(保科善四郎 中将)
「それはですね、昭和十六年の末です。私が航空担当の人が足らん、人が足らんちゅうもんでら、そこで、十一月二十三日ですか、高松宮さんがですね、軍令部の一課に来られまして、そして私のアシスタントもなさった訳です。そこで、航空の現状をご説明申し上げた訳なんです。その時に私はですね、今の日本海軍の航空兵力ではですね、将来いかに頑張ってもですね、必ず負けますと、必ず残念ながら負ける他ありませんと、こう申し上げたらですね、早速高松の宮様が、陛下にお目にかかって、海軍としてはですね、戦争負けると、少なくとも航空に関しては勝てないんだと、こうおっしゃったんですね。陛下はどういうことかと、それなら永野を呼べということになって、永野さんが陛下のところに呼ばれた訳なんです。それで、陛下は、高松宮がこう言うんだがどうなんだと、と。永野は、それは大丈夫ですよ、そんなことはありませんと、言ってごまかしたんです。そういう人です。」
〔陸軍と右翼による内乱を避けるため海軍は開戦に応じた〕
「 大体ね、そういう状況だった。私はもう航空戦の見地からね、アメリカの援助を受けたイギリスがね非常に航空戦で強くなった、そしてドイツから攻めていっても防空力がある。それでこれはもうドイツはね、英国本土上陸作戦はできないと判断をした。そのうちアメリカが参戦するから、第一次世界大戦と同じ結果になるとというのがわしに判断で、そういうことに乗っちゃいかんと思った。それに対してね、終戦直後、富岡(定俊)さんと私がいっしょに永野元帥に会いに行ってね、なぜあなたは早めに戦争をやりますという決心をなさったか、と言ったらね、今大井さんが言ったのと同じことなんです。陸軍と右翼で内乱になると、そうすりゃ海軍は負ける、その結果どうなるかっていうと、数ヶ月後にね、もうこちらが開戦しても勝ち目がないような、初期の作戦さえ勝ち目がないような状況において戦争をはじめなきゃんらんということになっちゃ困るから、それより少しでも勝ち目がある時にやろうということでやったと言われた。」(三代一就 大佐)
永野修身大将をめぐる問題〕
「 わしは、永野さんが軍令部長の時にね、あの人に仕えたわけですけどもね、どうも、わしは感心しないですね。終戦後ね、土佐の人ですから、土佐の人辺りが、私なんか呼んでね、永野さんの伝記書くから、一つ手伝ってくれということ言われましたがね、はあっ、て簡単に聞き流してね、わしの方から言わなかった。どうもね、永野さんの印象が悪いのはね、真珠湾攻撃、それからミッドウエー作戦ね、両方とも、わしが反対しているのに関わらずね、そうか、山本(五十六)がそういうなら、山本が言うとおりにやらしてみようじゃないか。と、こういう指示でしょ。どういう訳で、お前達はそういう反対するんだとね、そういうことは全然聞かないですよ。そいうことやってる所には顔出したことないですからね。大雑把なことであんた、それ、平常の演習だったらいいでしょう。しかし、日本の国の運命を決めるような重大な作戦に対してね、そんな平時の演習でもやる時みたいなことを言ってね、真剣に考えないというような人はね、わしはもうだめだと、こういうやつだったから負けたんだというように、今、かんがえたいですな。」(三代一就 大佐)
〔開戦前後の永野元帥の責任を考える〕
「 ・・・どうしてこの戦争に『ああ、ああ、ああ』と言っておるうちに入ってしまったのか。第一に、アメリカに駐在しておった先輩の方々ですよ。あれはやっちゃいけないよ、と必ず言われるのに、そういう人は何をしておったかと。長谷川(清)さんだって。永野さんの如きは三年おったんですよ。しかも一九二一年と一九二二年にかけてあの時にはワシントンにおった人だ、永野さんなんて。そうしてジュネーブの会議があると、また永野さんが行くんだ。」(矢牧章 少将)
「 ・・・永野さんが、昭和十六年七月二十七日、仏印進駐にについて海軍省だけでイエスと言った訳ですよ。・・・その時に井上さんが質問している。その時に永野さんが何と言ったかというと、『海軍省、政府が戦をやれというからね』と、こういうふうに永野さんがおっしゃった。政府がやれというからねと言われた。そして井上さんが帰ってきて、政府がやれと言ったところで、軍令部でこれは戦にならないと思ったら、この戦はご破算にせんならん、と言うこと何故いわないんだろうか、言わなかったのだろうか。ということを言っておるんだね。井上さんともあろう方が、それ言うぐらいだったら、なぜそこで、どんどん詰めなかったのかと。井上さんの言われることなら筋は通るだろうから。・・・」(矢牧章 少将)
〔理想は一系、現実との妥協がうまくいかなかった〕
   「 ・・・わしの痛切に感じておりましたことはね、(海軍においてー引用者注)科学的観念が一般に欠けておったと、こういうふうに思うんですよ。・・・」(三代一就 大佐)
〔開戦の抑止力にならなかった井上大将〕
「 井上さんの航空本部長の時ですよ、井上さんの部屋に、古賀(峯一)さん、山本五十六さんが来て、十六年七月二十七日のことです。その時に、永野さんていうのは、あれで軍令部総長務まるかねって、古賀さんが一番先に言い出しますよ。そしたら山本さんは黙っとってね、古賀さんと二人で怒りだす。こういう状況で、それからまた別室へ来て、中攻千機、戦闘機(千機)が無ければ俺はできないよ、と、山本さんおっしゃるんですね。そういう空気もあった。・・・」(矢牧章 少将)
〔教育訓練の欠陥ー政治・防備を疎かにした海軍〕
「 僕はね、教育訓練に関してはこう思います。教育訓練は学校教育と艦隊教育訓練とあったろうと思うんですよ。海軍の教育で欠陥のあったと思うのはね、例えば海軍大学校、ここでは政治ということに対する研究が、ほとんどされていない。戦術、兵棋演習と図上演習ばっかりに重きを置いて、戦争をしたら世界各国にどういう影響を及ぼすとか、戦争は重大な問題であるとか、そういうふうなことに対する教育が海軍ではなかった。・・・
     海軍大学あたりでも、戦史の教育はあったけれども、あんまり第一流の教官がいなくて、一流の教官は戦術、戦略の方をやってた。海軍大学の教育っていうのは、政治がないもんだから。開戦なんかの場合にもそういう腹がないもんだから、ずるずると引きずられてやっちまう。陸軍の方でも、本当にバトルばかりだ。海軍っていうものがどんなに戦争に影響するのかっていうのを、ただ陸軍の奉天の会戦とか、或いはヨーロッパの戦のようなことばかりやっとって、アメリカ、イギリスと、そういうふうなものに対する戦略、全体的な判断というものを教育していない。」(寺崎隆治 大佐)
〔反省会のテーマ、大項目の提出ー議事進行・運営についての見直し〕
「 教育訓練という題目のようでございますので、まず政治にかかわらずと。これが一番今回の戦争においても、海軍の欠陥があったものだと私は確信しております。」(鈴木孝一 少佐)

4「〔証言録〕海軍反省会」をどう読むか(私の読み方)

「証言録」は、「反省会」に参加した関係者のそれぞれが、いずれも海軍中枢にあって、太平洋戦争に関わったみずからの直接の体験や見聞を証言し、これをめぐって議論を交わした記録である。
 したがって、「証言録」には、証言者みずからの関わりの正当化のための歪曲や誇張、秘匿部分があることも読み取れる。しかし、このような証言に対しては、しばしば厳しい追及や反論もあり、興味深い応酬が展開されたりするのである。
  そして、「証言録」は、これらの作為にもかかわらず、客観的あるいは結果的には、太平洋戦争の開戦や遂行における展望について、海軍・陸軍を含む支配層の大勢が科学的な認識に基づく成算を欠いていたこと、それにもかかわらず日本だけで230万人とも言われる大量の兵士の「消耗」をもたらし、いずれもほとんど失敗に終わった作戦や「特攻隊作戦」のような無責任・非人間的な対応に終始したこと、その結果日本を含むアメリカ・アジア諸国民に多大の戦争被害をもたらす結果になったことを浮かび上がらせている。
その全容については、前掲「証言録」に譲るとして、私のいくつかの感想・感慨を述べたい。
(1)日本の軍部を含む支配層の貧弱な知的・文化的水準 
私の読後感の第一は、事後的な観察ということにはなるであろうが、海軍中枢部を含む日本の支配層が、日本の戦争遂行能力について、いかに、理性的で冷静な認識・判断を欠いていたか、また戦争の終結についての具体的な展望・構想を持っていなかったか、それにもかかわらず開戦に異をとなえる勇気を持てなかったという痛切な感慨である。
海軍の中枢を含む支配層は、基礎的な知識を欠く部分や一部の狂信的な勢力は別として、しばしば引き合いに出される山本五十六に限らず、ほとんど誰も戦争の勝利はもちろん戦争遂行能力についてさえ確信はなく、懐疑的で、むしろ悲観的な考え方が多かったことが看取される。
たしかに、1930年代(昭和5年代)、特に陸軍の狂信的な集団によるテロが横行した政治・社会状況のなかで、生命を賭する勇気を持つことが至難であったとことは事実であろう(このような政治・社会状況は、それ自体日本の当時の全体としての知的・文化的水準の低さ、後進性を示していたといえるであろうが)。
   しかし、軍部のなかで、日本の戦争遂行能力について、客観的・理性的で冷静な認識を持ち、このような認識を組織化し、戦争を回避する努力を尽くすほどの勇気を持つことが出来なかった重要な原因の一つは、例えば海軍中枢を構成した指導層が学校的には「秀才」であったとはいえ、全体として、毅然として開戦を拒むほどの確信と大局的な判断を導くに足りる知的水準に至っていなかった点にあったといえないであろうか。
このような社会的な知的・文化的水準の低さは、軍部に限らず新聞・雑誌などのメデイアや国民一般にも言えることであったと考える。
当時のメデイアは、むしろ好戦的な報道と論評をこととし、国民に対するとともに支配層に対しても戦争熱を煽ったのである(「朝日新聞社「新聞と戦争」における報道人の反省を参照されたい)。
また国民一般も、日本共産党のように戦争の本質を見抜き、戦争に反対する少数の勢力や知識人はいたが、圧倒的多数の国民は、天皇・軍部独裁の抑圧体制のなかで、客観的な知識・情報を与えられず、メデイアに煽られ、戦争遂行に組織されていったのである。
(2)専制国家・軍部独裁国家の悲劇
「証言録」によれば、ほとんどの証言者が、太平洋戦争の開戦の当否・可否、戦争遂行における戦略・戦術の選択などについての軍部の判断の誤りを指摘しており、それは枚挙にいとまないほどである。
   このような事態は、何故招来されたか。
 ① 私は、さきにわが国における社会全体の知的・文化的水準の低さ・後進性をあげた。 そして、このような全体状況と不可分に関わっていることであろうが、とりわけ軍隊において際だっていたのは、そこでの民主主義の欠如→絶対的な上命下服の体制のもと、衆知を集め徹底的な分析・検討・方針決定を行う作風に欠け、少数の「エリート」(軍事学校「秀才」)による視野の狭い判断・決定の誤りであったのではないか。
   例えば、悪名高い辻政信瀬島龍三などは、30代で陸軍参謀本部で作戦指導を行っていた。そして多くの作戦で致命的な失敗を重ねたという(最近、田母神俊雄という人物が、憲法を無視する非常識な言動で社会的な指弾を浴びた。しかしその彼が、自衛隊という軍隊組織のなかでは航空自衛隊第29代航空幕僚長という枢要な地位を占めることが出来たのもその好例ではなかろうか。)。
② 加えて、わが国の戦前・戦時下は、おそらく天皇制(統帥権)と不可分であったであろうが、政府・軍部の誰も最終的な責任を取らない体制、無責任の体制であった。 その結果、いずれも、みずからが最終的な責任を引き受ける自覚を欠くこととなり、誤りを厳しく糺し、修正するという責任の自覚にともなう自律的作用が働かなかったのではないか。
   さらに戦前のわが国は、治安維持法による言論弾圧体制が全国に網の目のように張りめぐらされ、他方で政府・軍部による情報操作によって、国民は戦争に駆り立てられたのである。 
すなわち、一方で治安維持法のもと、特高警察・検察・裁判所等により、反戦的な言論に対する徹底的な弾圧を行い、他方国民の判断を誤らせる情報操作によって批判を抑圧した。その結果、社会的にも戦争政策に対する健全な批判による戦争の回避の展望が開かれる余地がなかったのである。
(3)真の戦争責任の自覚の欠如ー「証言録」の限界ー
「反省会」とは言いながら、「証言録」における証言には、開戦・戦争遂行についての証言者らを含む中枢部の責任論(敗戦責任)はあるが、国民や世界に対する加害責任、さらには平和・人道に対する責任の自覚を見出すことはできない。
それゆえ、「海軍反省会」に加わりながら、警察予備隊自衛隊の創設に指導的幹部として参加した少なからぬ関係者もいるのである。
したがって、「証言録」からは、憲法の精神、憲法9条の趣旨につながるような展望を見出すことは困難である。
「証言録」における「反省」の限界であろう。
     (2009年12月)

ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリンー惨事便乗型資本主義の正体を暴くー」(原題「THE SHOCK DOCTRINE THE RISE OF DISASTER CAPITALISM」)(上・下)を読む

ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリンー惨事便乗型資本主義の正体を暴くー」(原題「THE SHOCK DOCTRINE THE RISE OF DISASTER CAPITALISM」)(上・下)を読む

小  林  保  夫(弁護士)

1 本書は、発売後すぐ、絶賛する反響が世界的に広がり、ベストセラーになったという。 新自由主義シカゴ学派の経済思想・政治思想とその具体化としての全世界的な謀略の展開ー惨事便乗型資本主義に対する実証に基づく告発が、世界的に大きな関心と支持を集めていることは、正義と良心の健在を示して私たちを勇気づける。
  本書については、すでに三浦一夫氏が「しんぶん赤旗」に的確な書評を書いており、いまさらに私が気の抜けた二番煎じをすることもない。
 私は、私が、とりわけショックを受けたいくつかの事例とその後の展開をとりあげて感想を述べたい。
以下、地の文章の多くも本書からの引用である。

2 「ショック・ドクトリン」・「惨事便乗型資本主義」とは

  それでも著者が本書に込めたメッセージを理解するために、まずは著者の使用した用語や解明を行った事例について一般的な紹介をすることにしたい。
 著者は、災害、政変、内乱、戦争などの「破滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為」を惨事便乗型資本主義と呼ぶ。換言すれば、「深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、『改革』を一気に定着させてしまおうという戦略」である。
  ミルトン・フリードマンは、「現実の、あるいはそう受け取められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイデアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に代わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである。」という。あるいは、意表を突いた経済的転換をスピーディかつ広範囲に敢行すれば人々にも「変化への適応」という心理的反応が生じるだろうと予想した。苦痛に満ちたこの戦術をフリードマンは、経済的「ショック治療」と名付けた。本書の著者は、これを「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策であると規定する。
そして、本書において検証されたフリードマンシカゴ学派のこのような理論・政策は、自由主義経済システムが最終的には経済秩序の安定化をもたらすなどというのは単なる口実に過ぎず、結局、「惨事」(国家・社会運営の困難や民衆の不幸)に便乗して、各国の支配階級、多国籍企業の利益を図ることを合理化する目的に出たもの、あるいはそのような役割をになうもの以外の何者でもないと理解される。
  そして、このような観点で検証すれば、世界には、不幸にもいまだこのような「火事場泥棒」的な事態が至るところで繰り返されていることに驚くばかりである。
しかし、今や、チリほかの南米諸国におけるアメリカ政府(CIA)、IMF国際通貨基金)、多国籍企業を含む資本の実験がすべて失敗に終わり、あるいは克服されているだけでなく、民衆の利益に添う社会変革が進められている事実は私たちを勇気づけるものである。

3 チリほか南米諸国におけるショック・ドクトリンの推進

1973年当時、チリ・アジェンデ政権は、民主主義を通して産業の国有化など社会主義への道を模索しており、資本主義とは異なる経済モデルの転換は、国民の間に支持を広げていた。
しかし、この試みは、チリに大きな利権を持つ多国籍企業を脅かすものであった。
アメリカのニクソン政権・CIAは、アジェンデ政権の転覆を図る策動を進め、ついに軍部を掌握していたピノチェトと図って暴力的な軍事クーデターに出、アジェンデ大統領を殺害し、あわせて経済体制の転換を推し進めることとした。
  軍事クーデターと独裁体制のもとでの大規模な弾圧がもたらした大混乱に際し、フリードマンらのシカゴ学派は、これを絶好のチャンスととらえ、ピノチェトに対して徹底的な自由市場経済体制を敷くことを提言した。
多くの分野での国営企業の民営化、貿易の自由化、価額統制の撤廃、財政支出の削減など、同学派の年来の提言が具体化された。
  しかし、1年半にわたるこのような実験は、食料品などの天井知らずの高騰、失業率の記録的な上昇、飢餓の蔓延などさんざんな結果をもたらした。
シカゴ学派の最初の実験は大失敗に終わった」のである。
ところが、これらの政策の立案・遂行にかかわったシカゴ学派の「シカゴ・ボーイズ」は、なんら懲りることなく、悪いのは自分たちの理論ではなく、適用の仕方が不徹底だったからであり、もっと財政支出の削減と民営化を進めなければならないと居直った。
このような実態にもかかわらず、今なお自由市場経済の信奉者たちは、チリにおける実験をフリードマン主義が有効であることの証であると祭り上げている。
 フリードマンらは、懲りず、引き続き、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンなどアメリカの支援を受けた軍事政権のもとでの南米諸国においてその理論の実験を試みたのである。
いずれも軍事政権下の国々であるのは、大規模な暴力の行使により、人々を恐怖に陥れ、障害を排除するシステムとしての軍事政権による弾圧体制がなければ、ショック・ドクトリンによる新自由主義経済政策の遂行は、民衆の抵抗・暴動を引き起こすことが必至だからである。
しかし、シカゴ学派の実験は、最終的にも失敗に終わったのである。
  本書は、これらの南米諸国政府とその民衆のその後の対応について、「今日、ラテンアメリカでは、かつて暴力的に阻止された社会変革プロジェクトが復活しつつある。再浮上しているのは、主要な経済部門の国有化や土地改革、教育への大規模な投資、識字率向上、医療の拡充など、すでになじみの政策ばかりで、そこには何も革命的なアイデアはない。しかし平等な社会を目指す政府を作るという正々堂々とした構想において、これらが1975年にフリードマンピノチェトに向けて発した言葉−『私が思うに、個人の金を使って善政を行なう、といった考えがそもそも大きな過ちなのです』−へのアンチテーゼであることには間違いない。」として、強い支持と期待を表明する。

4 イギリス、ボリビア、アルゼンチン、ポーランドスリランカ南アフリカにおける
 シカゴ学派の策動

イギリスは、複数多党制の民主主義国家であり、またアメリカとは異なって産業の国有化の経験や福祉国家としての歴史的伝統を有する国であるから、徹底的な民営化、貿易の自由化、国家財政支出の削減などの政策を基本的な柱とする新自由主義経済体制とは相容れないと考えられている。
ところが、サッチャー英首相(1979年就任)は、友人のシカゴ学派の「守護聖人」とも言うべきフリードリッヒ・ハイエクからチリをモデルにしてイギリス経済をケインズ主義から転換するように促され、みずからも「チリ経済の驚異的な成功」について熟知しており、それは、「われわれが多くの教訓を学ぶことのできる経済改革の成功例」であると述べている。
しかし、サッチャーは、ハイエクの提案するような急進的あるいは国民に不人気な政策を採用して選挙に負けることは出来なかった。
公営住宅の民間への売却という程度の政策にとどまり、炭鉱労組との対決にも失敗し、支持率も低迷して次回選挙での勝利は期待できず、一期限りにとどまりそうなサッチャーにとって、彼女の考え方を改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きた。フォークランド紛争である。
著者は、この紛争が、自由市場プロジェクトに大きな影響を与えた。西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分をサッチャーに与えたという。サッチャーは、この戦争にみずからの政治生命を賭けてたたかい、めざましい成功を収めた。そしてこの戦争は、翌年の選挙で大勝利に道を開いたという。
勝利したサッチャーは、炭鉱労組を「内なる敵」と位置づけて労組のストライキに大々的な弾圧を加え、数千に及ぶ多数の負傷者を出したが、これに勝利した。
  サッチャーは、フォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。国営企業の民営化・株式の売却、教育の改革などである。
フォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利は、急進的な政策の遂行のためのショック=惨事となったのである。
しかし、サッチャーリズムがその後短い命運に終わったことは今では明白である。
またポーランドにおいても、シカゴ学派ジェフリー・サックス(当時34歳)は、選挙で勝利した「連帯」の経済顧問として、前政権の債務の処理、深刻化する経済危機に際して、価額統制の撤廃、政府補助金の削減に加えて、鉱山・造船所・工場などの国営企業全ての民間部門への売却を内容とする「サックスプラン」を提起した。
「連帯」の指導者の多くは、これに危惧を抱き賛同しなかった。しかし、サックスは、このショック療法によって、価額が上昇し、「一次的な混乱」は生じるだろうとしつつも、「いずれ価額は安定し、人々は落ち着きを取り戻すだろう。」と予測した。
急激な経済の悪化のなかで、「連帯」のポーランド政府は、「ショック療法による治療ーしかもきわめて過激なーを受けることになった。『国営企業の民営化、証券取引所と資本市場の創設、交換可能な通貨、重工業から消費財生産への移行』および『財政支出の削減』を可能な限り迅速に、かつすべてを同時に行う。」ことを受け入れさせられた。一方サックスの助けによりポーランドは、IMFと交渉して、一定額の債務弁済と10億ドルの通貨安定資金を確保できたが、そのすべてにーとくにIMFの資金ーには「連帯」がショック療法に従うという厳格な条件がつけれられていた。
その後このような条件に対する国民の不満、抵抗が強まり、その履行は進まず、右傾化の偏向を生ずるなどしたが、労働者は、「社会主義に反対するのではなくその実現を目指し、やがては職場や国家そのものを民主的に運営する力を獲得するために闘うことを誓った。」。「連帯」は敗北し、民衆の支持を失った。
ボリビア、アルゼンチン、スリランカ南アフリカなどにおいても、それぞれに天災、政変などに際して経済的ショック療法が採用され、新自由主義に基づく施策が行われ、民衆は多大の災厄を余儀なくされたが、現在では、それぞれに新自由主義の経済政策を受け入れず、新しい道を模索していることが報告されている。

5 中国、ロシアにおける社会主義の運命ーフリードマンシカゴ学派の跳梁

本書のなかで、私が、最も関心を持って読み、そしてまさにショックを受けたのは、かつて社会主義を名乗った国ロシア、今市場経済を通じての社会主義を目指すという中国と新自由主義経済、フリードマンシカゴ学派との関わりである。

(1)中国

1980年、訒小平は、ミルトン・フリードマンを中国に招待し、トップ官僚や大学教授、党の経済学者など数百人を前に市場原理主義理論についての講演を行わせた。フリードマンは、これを振り返って「聴衆は全部招待客で、招待状を見せなければ会場に入れなかった。」と言ったという。
1980年代、訒小平主席の率いる中国政府は、労働者の自主的な運動が共産党の一党支配を覆したポーランドの二の舞になるまいと躍起になっていた。しかし、それは、共産主義国家の基礎を形成する国営工場や農業共同体をなんとしても守りたいとという意図からくるものではなかった。それどころか、訒小平は、企業主体の経済への転換に熱心に取り組んでいた。
   フリードマンは、規制のない商活動の自由を重視し、政治的自由は付随的なもの、あるいは不必要なものとさえみなしていたが、こうした「自由」の定義は、中国共産党指導部で形成されつつあった考え方とうまく合致した。すなわち、経済を開放して私的所有と大量消費を促す一方で、権力支配は維持し続けるという考え方である。そうすれば、国家の資産が売却されるにあたって党幹部とその親族がもっとも有利な取引をし、一番乗りで最大の利益を手にできるという筋書きだ。そのために中国政府は、ピノチエトに近いやり方、すなわち、自由市場経済と冷酷な弾圧による独裁的政治支配の組み合わせを採用した。
   1983年、訒小平は、市場を外国資本に開放し、労働者保護を削減したのに伴い、40万人強の人民武装警察の創設を命じる。
   訒小平の改革の多くは成功し、人々の支持を受けた。しかし、80年代後半になると、国民、とりわけ都市労働者にはまったく不人気な政策を導入し始める。価額規制や雇用保障の撤廃によって物価は急騰、失業が増大し、勝ち組と負け組との間の格差が拡大した。
1988年9月、再びフリードマンは、中国政府に招待され、中国共産党総書記趙紫陽、のち国家主席となる江沢民と会談した。フリードマンは、江沢民に、かつてピノチエトに伝えたのと同じメッセージ「圧力に屈するな、動揺するな」と励ました。フリードマンは、「私は、民営化と自由市場、そして自由化を一気に行うことの重要性を強調した。」と振り返った。そして「ショック療法」をもっと行うことが必要だと強調したという。
1989年4月、天安門事件が発生し、中国政府は、これに対して戒厳令を布告し、全国にわたって、徹底的な弾圧を行った。「逮捕された者の大半、そして処刑された者は事実上すべて労働者だった。国民を恐怖に陥れるという明らかな目的のもと、逮捕者を組織的に虐待し拷問にかけることが周知の政策となった」とのモーリス・マイスナーが引用される。
天安門事件の全国的な大弾圧のあと、訒小平は、この事件とこれへの対処について「ひとことで言うなら、今回のことは試験であり、われわれはそれに合格したのです。」、「不幸な事件ではあったが、これによってわれわれは改革及び開放政策をより着実に、より良く、より速いスピードで推進できるだろう。(中略)われわれはけっして間違っていなかったのです。(経済改革の)4つの基本原則には何の問題はない。足りないものがあるとすれば、それはこれらの原則が十分に実施されていないことです。」と述べたという。
流血の事件の直後から3年間に中国は外国資本に市場を開放し、国内各地に経済特区を設置した。訒小平は、これらの新しい政策を発表するにあたって、国民に、こう警告したー「必要であれば、いかなる混乱でもその兆候があり次第、あらゆる可能な手段を使ってそれを排除する。戒厳令、あるいはそれより苛酷な措置が導入される可能性もある。」
中国を世界の”搾取工場”−すなわち地球上のほとんどすべての多国籍企業にとって、下請工場を建設するのに適した場所へと変貌させたのは、まさこの改革の波によるものであった。
2006年の調査によれば、中国の億万長者の90%が共産党幹部の子弟だという。
中国の政治・経済システムは、企業エリートと政治エリートが相互に乗り入れ、両者が力を合わせて組織化された労働者を排除するという構図である。
「今日の市場社会が作られたのは一連の自然発生的な出来事の結果ではなく国家による暴力の結果なのだ。」(汪暉)という。
(2)ロシア

1991年、ゴルバチョフソ連大統領は、新生ソ連の改革の英雄として国際社会に迎えられるはずであった。ところが、彼が臨んだG7(先進国首脳会議)において、シカゴ学派の経済プログラムか、正真正銘の民主主義革命かの選択を迫られた。
しかし、1ヶ月後、ロシア大統領ボリス・エリツィンは、戦車で国会を脅迫したソ連共産党守旧派に対抗したことによって、共産主義者のクーデターから民主主義を救うとという功績によって、少なくともしばらくの間は、国民の英雄となった。
しかし、エリツィンは、ソ連を崩壊させ、ゴルバチョフを退陣に追いやった。
エリツィンソ連の崩壊を宣言した日、シカゴ学派エコノミストジェフリー・サックスは、経済顧問として招かれ、クレムリン宮殿の1室にいた。
ロシアの資本主義への転換策は、その2年前に天安門での抗議運動に火をつけた中国政府の腐敗した政策と共通する部分が多かった。
ハイエクフリードマンらのシカゴ学派の指導と支援を受けたエリツィンらの経済的ショック・プログラムには価額統制の廃止のほか、貿易自由化や国有企業22万5000社を立て続けに民営化する計画の第1段階も含まれていた。
  その後エリツィンは、クーデターを起こして全権力を掌握し、議会を解散し、憲法を停止し、独裁政治を打ち立てた。
そして、企業の民営化の推進のなかで、石油、ニッケル、兵器などの代表的な国営企業が二束三文で売却された。そして、本書は言う「言語道断なのは、ロシアの国家資産が本来の価値の何分の1という値段で競売にかけられたことだけではない。それらはまさにコーポラティズム流に、公的資金で購入されたのだ。」。エリツィン政権と民間銀行が結託し、国営銀行や国庫に入るはずだった巨額の公的資金を購入資金に充てたのである。エリツィンの後をおそったのはウラジミール・プーチンであった。エリツィンは、プーチンに、ピノチエト流に刑事免責特権を要求し、その結果プーチンの大統領としての初仕事は、汚職であれ、エリツィン政権下で起きた民主化運動活動家の殺害であれ、エリツィンが刑事訴追を受けないことを保証する大統領令に署名することだった。

6 イラクー「テロとのたたかい」を口実にするブッシュ政権と戦争企業とイラク国家・社会の破壊

戦争は、最悪の惨事であり、この戦争を食い物にして利益を得ようとする国家・企業・個人などの姿は、まさに醜悪である。しかし、さらに国土や資源の獲得・支配や利益のために、口実を設けてあえて戦争を起こし、抵抗したり、邪魔をする勢力や無辜の人々を殺戮するのは、許容しがたい犯罪行為である。
  イラクに対する侵略は、まさにその典型であった。
  アメリカのブッシュ政権と戦争企業は、9・11事件によるアメリカ国民をはじめとする世界的な「ショック」を契機に、「テロとのたたかい」をうたい、実際には、イラク核兵器などの「大量破壊兵器」が存在しないことをあらかじめ完全に把握していながら、「大量破壊兵器」が存するという白々しい口実を設けて、同盟諸国政府を巻き込み、イラク侵略戦争を仕掛け、イラクの民衆に数十万にも及ぶ多大の犠牲者を生じ、イラクの国や社会をおそらく何十年にもわたって取り返しのつかないほどに破壊し、のみならずみずからのアメリカ軍の兵士・国民にも多大の犠牲を強いる結果を引き起こした。
ところが、ブッシュ自体や、同政権の幹部(ネオコン一派)が関わる多くの企業は、アメリカ国民の税金を無尽蔵の財源として、莫大な利益をむさぼったのである。
  本書は、ブッシュ政権や戦争に便乗して利益をむさぼった戦争企業を告発する。
アメリカ等のイラク侵攻後、イラク国民の民主主義への期待に対して、ブッシュ政権は、選挙を中止し、民主主義を暴力で抑え込み、反対する者を片っ端から連行して拷問を与えることによって経済ショック療法を断行するという原点に立ち戻った。
もしイラク国民が次の政府を自由に選ぶことができ、その政府が実質的な権力を握れば、米政府はこの戦争の大きな目的のうちの二つーイラクに自由に米軍基地を展開すること、そしてイラクアメリ多国籍企業のために全面的に開放することーを達成できなくなるからである。
イラクでは、アメリカ軍やその傭兵による「テロリスト」を口実とする無差別の拉致・暴行・拷問が日常化し、「集団虐殺」をはるかに上回る忌まわしい事態が起きた。
  イラクの産業がことごとく崩壊する一方、国内でブームとなったビジネスのひとつが「誘拐」であった。また「拷問」も新たな成長産業になった。警察が被拘束者の家族に拷問をやめる引き換えに数千ドルを要求するケースが数え切れないほどに上ったという。本書は、その多数の具体的な事例を紹介する。
イラクの政府収入の95%を石油に依存し、また将来の国家の再建を保障する唯一の資源は石油産業であるが、2006年にアメリカの超党派の諮問機関 「イラク研究グループ」の報告書は、アメリカが「イラク指導者を支援して国営石油産業を営利事業として再組織し、」、さらに「国際社会や国際エネルギー企業に呼びかけて、イラク石油部門への投資を奨励する。」べきだと提言した。
この提言に基づいてブッシュ政権イラクの政府に手を貸してまとめた「イラク新石油法案」は、シェル石油やBPといった国際石油メジャーが30年の長期契約のもとで、数百億、いや数千億ドルにも及ぶイラクの石油収益のかなりの部分を保持することが可能なものであり、政府収入の95%石油に依存する国を恒久的貧困に縛り付ける宣告にも等しいものだった。
石油メジャー側は、利益の大部分をイラクから取り上げることを、安全上のリスクを負っていることを理由に正当化した。言い換えれば、惨事そのものがこれほど大胆な法案提出を可能にしたのである。
2007年2月、イラク政権が最終的に採用した法律は、予想された以上にひどい内容だった。なかでも厚顔無恥と言うべきなのは、将来の石油契約に関してイラクの国会議員はなんら発言権を持たないという規定である。
崩壊の危機にある国から将来の富まで乗っ取ろうというのは、惨事便乗型資本主義のなかでも破廉恥の極みとしか言いようがない。
イラクの混迷で最大の利益を得たのはハリバートンだった。
ブッシュ政権の戦争の民営化と、その庇護のもとで、軍需物資の調達だけでなく、傭兵や新兵の採用といったもともと国の業務まで、あらゆる分野にわたって、これをビジネスとして事業を拡大し、莫大な利益を挙げた。その原資は、国民の税金であり、それは無尽蔵であった。
私たちは、イラクにおけるアメリカ軍や軍事会社の傭兵による殺戮・破壊の悲惨な現象については、すでに多くの情報を得ている。しかし、このような現象をもたらしたアメリカ・ブッシュ政権や戦争企業、多国籍企業の意図やその遂行については、必ずしも十分な体系的な理解を得ることができていなかった。本書は、この点について、極めて多くの示唆を与えてくれるものである。

ジョン・ニコルス著「市民蜂起 ウオール街占拠前夜のウイスコンシン2011」(株式会社かもがわ出版 1800円)の大阪・日本の労働者・市民への呼びかけにどう答えるか

ジョン・ニコルス著「市民蜂起 ウオール街占拠前夜のウイスコンシン2011」(株式会社かもがわ出版 1800円)の大阪・日本の労働者・市民への呼びかけにどう答えるか
                          弁護士  小  林  保  夫

 私の親しい友人である梅田章二さん・喜多幡佳秀さん監訳、おおさか社会フォーラム実行委委員会日本語版編集による標記の著作が出版された。  
 本稿は、私の切実な読後感を踏まえて、みなさんにこの著作を紹介し、購読をお勧めするものである。

1 本書の概要−公務員労働者の団体交渉権を守るためのウイスコンシン州市民のたたかい−

  資本主義の行き詰まりを新自由主義的な方向と政策で打開しようとするアメリカの企業・富裕層は、ウイスコンシン州で共和党のスコット・ウオーカー知事のもとで緊縮財政政策を推し進めるにあたって、これに対する抵抗を排除するために、2011年2月11日、公務員労働者、教員等から団体交渉権を奪い、労働組合の権利を制限する内容を含む財政改革法を提案した。これに対して、同州のみならず全米の民主主義勢力が反対の声を上げ、同州首都マデイソン市において、当初の50人から、10万人にも及ぶ集会参加者を得、ついに同月20日、州議事堂を占拠するに至った。3月3日占拠を終結し、またさきの団交権制限法案の可決を見るが、その後も共和党議員や同上知事のリコール運動への展開とその成功をかちとった。
  ウイスコンシン州におけるたたかいは、他の諸州におけるたたかいとともに、さらに2011年7月に始まる全米の市民による「ウオール街の占拠」と思想的・運動的に連動するものであった。
  本書は、ウイスコンシン州におけるたたかいを跡づけ、その正当性をアメリカ合衆国憲法(修正第1条 抵抗権)、民主主義の観点から解明するとともに、このたたかいについてのメデイアの対応やあり方を検証したものである。
 著者は、アメリカのオピニオン誌「ネイション」の政治記者・ジョン・ニコルスであり、みずからも、ペンと行動によってこのたたかいに参加し、立ち上がった市民を鼓舞激励した。

2 著者の日本の読者への呼びかけ−たたかいと連帯の必要ー

  著者は、「日本語版への序文」において、日本の読者に以下のように呼びかける。
  「ウイスコンシン州のスコット・ウオーカー知事が州の公務員の団体交渉の制度を解体しようとした。」のに対して、州民たちは「アメリカの現代史の中で最大の、最も戦闘的な、労働者の権利を擁護する運動を展開した。」
世界の多くの国で、政治的利権グループは、「『緊縮財政』の旗を掲げ、経済的な混乱と財政の困難な中では労使関係や、社会福祉や、国家の役割の根本的な変革が必要であると主張している。緊縮政策は嘘である。彼らは『負担を分かち合う』べきだと言っているが、現実には、勤労大衆の賃金や福利が犠牲にされ、若者、高齢者、失業者、貧困層に対するサービスが切り捨てられる一方で、企業と富裕層は保護され、冨と権力を上に向けて再配分する政策によって、一層富裕化している。」
ウイスコンシンの闘いは、労働者の権利と組合の力に対する攻撃に反撃し、生き延びた経験の物語である。それは、純然たる勝利や、たやすい勝利ではない。後退もあった。ウオーカー知事は、彼の政策のいくつかの要素をすでに実施した。労働組合と労働者は大きな打撃を受けた。知事による州議会上院の支配を終わらせることができたが、ウオーカー知事を失職させることはできなかった。」
ウイスコンシンの教訓は、反労働者的な政策との闘いは可能であるだけでなく、必要であるということである。」
ウイスコンシンのもう一つの教訓は、国際連帯である。」
そして彼は、日本の読者に対しても「連帯を!」と呼びかける。

3 私たちはウイスコンシン州のたたかいから何を学ぶか−ウイスコンシン州における攻撃とたたかい、大阪における橋下・維新の会の攻撃と私たちの闘いの共通の普遍的性格−

本書が紹介するウイスコンシン州における労働者・市民への攻撃の内容は、まさに今大阪で展開されている橋下・維新の会の労働者・市民に対する労働基本権侵害、福祉攻撃と驚くほどの共通性を有するものである。
橋下氏は、府知事当時、大阪府の職員・教員に君が代斉唱を義務づける条例を制定し、その後大阪市長に就任すると同市においても同様の条例を制定したうえ、さらに維新の会所属の府知事とともに、憲法地方公務員法はもちろん、改悪教育基本法さえ無視して、府市職員・教員の組合活動・政治活動の権利、教育活動を徹底的に抑圧する条例を制定し(大阪市)、あるいは制定しようとしている(大阪府)。
橋下・維新の会は、これらによって労働者・市民の抵抗を排除して、労働者の権利に敵対し、市民の福祉を切り捨て、核武装まで可能にするような新自由主義的・反憲法的・反民主主義的な内容の政策(「維新八策」)を推進しようとしている。
しかも、これらの政策への志向は、橋下・維新の会に限らず、日本の支配層に共通するものである。
この点で、ウイスコンシン州における事態は、わが国の労働者・市民にとってよそごとではない。
ウイスコンシン州における市民の反撃は、私たちに多くの教訓と示唆を与えるものではないだろうか。
橋下・維新の会が「維新八策」に掲げる政策は、客観的には、大阪府市民の99%の利益に敵対し、圧倒的多数の市民の平和への願いに敵対するものである。
したがって、このような勢力に対するたたかいは、客観的には圧倒的多数の市民の理解と支持を得る性格を持つものであろう。

マイケル・ムーアは言う−「ウイスコンシンで起こっていたことはどこででも起こりうる」−

  本書について、マイケル・ムーアは、「ジョン・ニコルスはウイスコンシンの闘いの意義が1つの州にとどまらないことをすぐに理解した。それは私たちみんなが待っていた闘いである。人々は『もうたくさんだ!』と叫んだ。ジョンはウイスコンシンで何が起こったかを語っているだけではない。ウイスコンシンで起こっていたことはどこででも起こりうることを私たちに教えている。」と語った。
 私も、マイケル・ムーアのひそみにならって、「2011年にウイスコンシンで起こっていたことは日本でも起こりうることを私たちに教えている。」と語って、とりわけ橋下・維新の会が、新自由主義の政策を振りかざして、大阪をはじめとするわが国の労働者・市民に加えようとしている憲法・民主主義破壊の攻撃に対して、スコット・ウオーカー知事らの労働基本権攻撃とたたかって成功を勝ちとったウイスコンシン州の市民のようにたたかうことを訴えたい。 (2012年10月24日)

フェルメール「真珠の首飾りの少女」を観る

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を観る

 9月3日午後、事務所のみなさん多忙のなか、若干、良心の呵責を感じたのですが、フェルメール(神戸市立博物館 マウリッツハイス美術館展)を観てきました。

 私は、おそらく生来、美術、音楽などの分野についての素質を欠いていることを自覚しており、わずかに作者の時代背景、生涯、思想などの考証に参入できるだけです。
 そこで、ウイキペデイアなどで、フェルメールレンブラントルーベンスなど16、17世紀頃のオランダの美術界の様子をのぞき見たうえで、かの有名なフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を「拝顔」することにしました。
 「少女」の画は、薄暗い大きな一室の壁に一枚だけ掛けられ、そこにだけ照明が当てられていました。週日にもかかわらず、この部屋では何十人もの人が列を作って順番を待っていました。

 「少女」は、あの青いターバンと真珠の耳飾りを着け、大きな瞳とわずかに開いた意外に濃い赤みがかった唇でこちらを見つめていました。
 ゴッホのように直接観る人の心情に食い入るような印象は感じませんでしたが、多くの人たちの評価のように一種の感動を覚えました。
 あらかじめ、テレビなどで、光線を考慮した技巧などという画法についての解説などを見ていたので、そんな関心もそそられました。

 先日朝日新聞毎日新聞の夕刊?で、同じ時代の他の画家の「牡蠣をを食べる女」などとともに、「少女」のかすかな娼婦性などという見方も指摘されていましたが、そんな関心でも観てしまいました。

 「少女」を添付します。ご鑑賞ください。なお、この画像は、会場で売られていた画集などよりもはるかに鮮明で原画に忠実だと思います。

橋下氏らの「維新八策」について

橋下・維新の会の政策(「維新八策」)を俯瞰する
       −そこに見られる姿勢・志向とその見方について(メモ)−

弁護士  小 林 保 夫

はじめに 

橋下氏と維新の会の提起する問題については、多くの人が議論に参加することが、好ましいというだけでなく必要であるという問題意識と、私もこの問題について時折発言してきたことにともなう義務感から、発言することにしました。
私は、主として橋下氏らの政策提言(「維新八策」)をめぐって、感想を述べます。
「維新八策」については、すでに学者・政党・労働組合などから多くの発言・論考が発表されているので、今さらとも思うのですが、これを「俯瞰」すると、あらためて見えてくるものがあると思いました。
なお、みずからの提言を明治維新になぞらえて「維新八策」と命名する橋下氏らの心情には、時代錯誤と右翼臭を感じてしまいます。

1「維新八策」の基本的な内容

 橋下氏らの政策提言は、多くの論者が、抽象的な羅列に止まり具体的な内容が乏しく、またこれを実現する手立てが明らかにされていないと指摘しています。
しかし、逆に、「維新八策」として公表された政策提言は、その項目を俯瞰すると、橋下氏らの基本的な姿勢や志向の特徴を端的に示すものとなっています。
「維新八策」の内容は、以下に挙げるとおりです(ただし、新聞発表の順序や表現のとおりではありませんし、私が注釈を付けた部分もあります。番号も検討の便宜のために私が付けたものです)。
  ① 統治機構の作り直し(大阪「都」構想、道州制、首相公選制等)
  ② 憲法改悪(改憲手続の緩和、憲法9条の見直し・国民投票
 ③ 国会改革 衆議院議員定数の半減 参議院の廃止
 ④ アメリカとの軍事同盟を含む安全保障政策の堅持・推進
 ⑤ TPP加入推進
 ⑥ 消費税増税
 ⑦ 「地方分権」 地方交付税財源の地方移管
 ⑧ 教育改革(競争主義の推進、教育委員会制度の廃止、公立学校教員の非公務員化)
 ⑨ 公務員の身分保障の廃止
 ⑩ 解雇規制の緩和
 ⑪ 生活保護の制限
 ⑫ 「都」によるインフラ整備
 ⑬ 民営化・民間委託の推進、公務員削減、公共サービスの切り捨て・削減
地下鉄民営化、
現業職員の非公務員化
      市職員の半減(2万人リストラ)
なお、橋下氏らの政治理念が、「自立」、「自助」、「自己責任」、「競争」など、まさに新自由主義の旗印であることはあわせて留意しておく必要があると思います。

2 橋下氏らの提言の基本的性格・特徴

「維新八策」に盛り込まれた政策は、まさに、私たちが日頃、新自由主義国家主義ナショナリズム)あるいは保守主義などと評価しているものの典型的政策の羅列ではないでしょうか。
(1)まず、「①統治機構の作り直し」は、「③国会改革 衆議院議員定数の半減 参議院の廃止」、「⑦ 地方分権、 地方交付税財源の地方移管」などとともに、その余の政策提言(「② 憲法改悪(改憲手続の緩和、憲法9条の見直し・国民投票)など)を推進・実現するための方策の整備であると理解されます。
 「衆議院議員定数の半減 参議院の廃止」という提言は、可能な限り細やかに国民の意見を国会に反映させるという民主主義の要請に真っ向から敵対するものです。
 そこには橋下氏らが、みずからが振りかざす「民意」をまさに無視ないし軽視し、強権的・独裁的に新自由主義国家主義あるいは保守主義的な政策を推進する意図や姿勢が見られることはもちろんです。その意味で新自由主義国家主義あるいは保守主義と親和的であると評価することができると思います。
(2)橋下氏らの憲法敵視の姿勢、とりわけ9条(戦争放棄)が現今の日本のすべての悪の根源であるかのように敵視する数々の発言は、よく知られています。
また、橋下氏らが、現行の教育委員会制度を敵視し、これを廃止する意図を持っていることも公知のものとなっています。「教育基本条例」など一連の教育制度の改変の意図や経緯はその端的な表れです。
この2点において、橋下氏らが、超右翼の安倍晋三元首相と肝胆相照らすほどに共鳴し合う関係にあることはすでによく知られた事実であり、元首相は、橋下氏らとの連携を視野に入れて、あわよくばふたたび首相の座を得たいと画策していることが報じられています。
これらの事実は、橋下氏らの政策やその依って立つ思想・姿勢が、私たちが国家主義あるいは保守主義などと評価している思想傾向そのもの(しかも「超」という評価に値するほどの)であることを示していることには異論の余地がないでしょう。
 「④ アメリカとの軍事同盟を含む安全保障政策の堅持・推進」もその一環と言うべきことは明らかです。橋下氏は、核武装論者であることもよく知られた事実です。
(3)「⑤ TPP加入推進」、「⑥ 消費税増税」、「⑦ 地方分権」、「⑧ 教育改革(競争主義の導入、教育委員会制度の廃止、公立学校教員の非公務員化)」、「⑨ 公務員の身分保障の廃止」、「⑩ 解雇規制の緩和」、「⑪ 生活保護の制限」、「⑫『都』によるインフラ整備」、「⑬ 民営化・民間委託の推進、公務員削減、公共サービスの切り捨て・削減」などの政策は、まさに財界・大企業・富裕層(1%)の利益に添う新自由主義政策の典型であり、類似の政策は、アメリカ(とりわけレーガンのもとで)はもちろん、イギリスのサッチャーのもとで推進されたもので、まさに99%の国民に多大の塗炭の苦痛・災厄を及ぼした歴史的先例があるものです(しかし、結局破綻せざるを得なかったのです)。
なお、参考までに挙げれば、2010年(平成22年)のわが国の人口は約1億2800万人で、その1%は128万人、同年度の世帯数は約5180万世帯で、その1%は52万世帯です。99%と1%の対比はわが国でも誇張ではないのではないでしょうか。

3 橋下氏・維新の会の政策・手法の見方

(1)客観的に見て誰を利するか(私たちのアピールの眼目!)
 「維新八策」において提起された政策は、財界・大企業・富裕層(1%)の要求を代弁し、その利益の擁護を意図したもの、あるいはこれを結果するものであることが余りにも顕著であり、圧倒的多数(99%)の国民・市民、労働者、低所得層などの利益に添うメーセージはほんのわずかでも見当たらないのではないでしょうか。この点は、橋下氏らの支持者を含めて何人も否定できない冷厳な事実!ではないでしょうか。
問題は、この点をどのように訴えるかであると思います。
(2)橋下氏らの手法とその特徴
それにもかかわらず(とはいえ、これまでは「維新八策」というような体系的な政策の提示はなかった)、なぜ橋下氏らは、知事選、市長選を通じてあれほどの「人気」と「支持」を得たのでしょうか。
 その支持層については、例えば、「世界」2012年7月号の松谷満氏の調査・分析が知られていますが、それによれば、橋下氏らにその打開を期待する人々は、管理職層、正規雇用層で高く、自営層、専門職層、非正規雇用層で低いとされています。 しかし、「強い支持」に「弱い支持」を合わせると支持が全階層にわたっていることが認められます。
私は、これらの「支持」は、橋下氏らの政策への積極的な支持というよりも、中央・地方にわたる政治・社会の閉塞状況に対する鬱積した不満・批判が、橋下氏流の一刀両断的な公務員攻撃など現状否定の姿勢にはけ口を見いだした結果に過ぎないと思います。橋下氏らの政策内容がこれらの支持者の現実の生活要求に添うものとして積極的な支持を得たものと言えないことは明らかであると思います。
なお橋下氏に対する支持が管理職層、正規雇用層で高いことは、橋下氏らの政策が新自由主義のそれであることが敏感に反映されていると見られて興味深いものがあります
私は、橋下氏らの政治手法の特徴については、以下のような点を挙げることができると思います。同氏及び維新の会の「支持」者は、これらの特徴の全てを了解したうえ、あえてこれを支持し、あるいはその一面のみに騙されたというべきではないでしょうか。
 ① まず、橋下氏の巧みな弁舌を武器にしたマスコミの取り込み・活用、これに対するマスコミの過大な呼応・迎合を指摘しなければならないと思います。
 ② 現行の教育体制批判とあいまって教員を含む公務員攻撃などの現状否定によって鬱積した市民の不満・批判にはけ口を提供し、市民の共感を得ていることは明らかです。
   ③ 執拗な攻撃による公務員の非人間化・奴隷化・ロボット化、公務員労働組合の弱体化は、橋下氏らの政策遂行の不可欠の手段になっています。 
 世上の「公務員たたき」の風潮を追い風として、公務員のロボット化及び公務員組合の徹底的な弱体化によって、橋下氏らの政策遂行に対する抵抗を排除・軽減する点で、当面は一定の成功を見ていると思います(大阪市における地下鉄民営化、現業職員の非公務員化、市職員の半減(2万人リストラ)等の政策の進行)。
   ④ 上から目線の強権的・独裁的な対応がきわめて特徴的です。
 ⑤ ④ともあいまつものですが、敵か味方かの2極対立を作り、「敵」を口汚く罵り、徹底的に排撃するのも橋下氏らの手法の顕著な特徴でしょう。。
 ⑥ しかし、私は橋下氏は、人間的には皮相・軽薄・低劣というべく、自己中心的であると思います(苛烈に取り立てる消費者金融企業や事実上売春を業とする飛田遊郭の料飲組合の顧問弁護士であったこと、北新地のクラブホステスとの性的関係については、みずからを信用失墜行為を犯したものとして問責しないことなど)。
 ⑦ 政策的には、上山信一堺屋太一竹中平蔵などの新自由主義思想・政策の受け売り、あるいはこれへの強い共感・同調に出たものでしょう。
 カジノの導入は、橋下氏の独特の発想ではなく、新自由主義の古典的テキストにも挙げられています。
 ⑧ 私は、橋下氏には、一般庶民を含む社会的弱者に対する同情・配慮という人間的資質を欠く点が、おそらく、政治家としての致命的な欠点であると思います。
⑨ なお私は、新自由主義は、思想的にも沿革的にも反共主義と不可分であると思いますが、橋下氏らも、反共思想を共通の体質としていることも強調しなければならないと思います。

4 どんな点で橋下氏らと対決するか

(1)まず、前述のように、橋下氏及び維新の会の政策が誰の利益に奉仕するものであるかは、客観的には、きわめて見えやすいのではないでしょうか。
橋下氏らの政策がみずからの利益に添うか否か、その手法がみずからの感覚になじむかどうかは、労働者・労働組合はもちろんですが、圧倒的多数の市民にとっても、容易に理解・納得できるものではないでしょうか。
(2)どのようにして多くの市民に橋下氏らの政策の反国民・反市民的な性格・内容に対する理解を広げるかが差し迫った課題でしょう。
もちろん私も提言できるような適切な方法を持ち合わせていませんが、少なくとも以下の点の指摘は欠かせないのではないでしょうか。
 ① 橋下氏らの政策が、客観的に見て、国民の99%の人たちの利益に反し、わずか1%の利益に添うに過ぎないこと
 ② 橋下氏らが核武装を是認するほどの憲法敵視勢力であり、平和に敵対する勢力であること
 ③ 橋下氏らが、国民の圧倒的多数を占める社会的弱者に対する同情や共感を持ち合わせない非人間的な資質の持ち主であること
(3)なお、橋下氏らの政治手法は、「ファッショ的」とは言えるかも知れませんが、ただちに同氏らの勢力の思想。政策の傾向や活動をファシズムと規定することが、正確なとらえ方として正しいか、多くの市民の理解と結集を図るという戦略の点でも適切かについては疑問があります。
そもそも橋下氏・維新の会の思想・政策・活動がファシズムと規定できるか、あるいはこれに準ずるものと規定できるか、私は十分な理解・納得に至りません。
説かれるところによれば「ファシズム」は多義的であり、また現在のところ多くの市民のになじまないのではないかと恐れます。
 すなわち、イタリア(ムソリーニ)、ドイツ(ナチスヒットラー)、日本(戦前・戦時中の天皇ファシズム)などにおけるファシズムの猛威と恐怖についての経験と知識を持たない多くの市民にとって、独断的・レッテル貼り的な規定と受け止められ、本来ならば共同の戦線に参加を求めなければならない広範な市民の理解を得られるかどうか危惧します。
 ちなみに、初歩的で恐縮ですが、かの「広辞苑」では、ファシズムについて、「①狭義には、イタリアのファシスト党の運動、並びに同党が権力を握っていた時期の政治的理念及びその体制。② 広義には、①と共通の本質をもつ傾向・運動・支配体制。第一次大戦後、ヨーロッパに始まり世界各地に出現(イタリア、ドイツ、日本、スペイン、南米諸国、東欧諸国など)。全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特徴とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する。」と解説しています。                   2012年9月

「終戦 なぜ早く決められなかったのか」

NHK TV 8/15 「終戦 なぜ早く決められなかったのか」

アジア・太平洋戦争末期、天皇、政府、陸軍、海軍指導層は、迫り来る崩壊を前に、ついに戦争の終結を決断することができなかった。
 海軍は、開戦の当初からみずからに戦争を遂行する能力がなことを認識していた。陸軍は、精鋭を誇った関東軍が戦争能力を失ったことをひそかに天皇に告げていた。しかし、天皇の出席する御前会議では、誰も戦争の終結を提起する者はいなかった。
本土への空襲、沖縄での米軍の上陸、広島・長崎への原爆の投下、ソビエトの中立条約の破棄と滞日参戦ー戦争末期の短い期間に犠牲は累積した。
 にもかかわらず、このような犠牲が引き続く中で、なお、なぜ、終戦を決められなかったのか。
指導層のなかには、民衆の犠牲を回避することを提起する者はいなかった。ひたすら、「国体の護持」、天皇制の存続という難題の前に立ちすくんだのである。
 姜尚中さんが、「日本の指導層は、所詮官僚の限界を超えることができなかったのではにか」と述べていたが、説得的であった。軍部の最高責任者といえどもみずから責任を引き受ける勇気や矜持はなかったのである。
岡本行夫という外務省出身の外交評論家が、みずからを含む外務省が、長年にわたりアメリカに従属し日本の進路を歪めている責任を棚にあげて、当時の政府や軍部を非難するのには違和感を覚えた、というより醜悪に見えた。
 私は、さきに海軍軍令部に依った中堅幹部層が論じた「証言録海軍反省会」という著作を読んだが、そのなかで戦争時代の政治家や軍部が暗殺を恐れて、勇気のある発言や行動に出ることができなかったのではないかという趣旨の発言があったのを記憶しているが、たしかに陸軍の粛正を図った2・26事件は、太平洋戦争の開戦に先立つほんの5年前のことであった。おそらく当時の政治家・軍部の指導層は恐怖の記憶を鮮明に留めていたに違いない。