橋下・維新の会の性格・路線・構想について

 20日6時30分から、「危機を考え、希望を語る」大阪講座3回目が開かれた。講師は立命館大学森裕之さん、「橋下維新の会の政治と統治機構改革」というテーマであった。
 橋下・維新の会がさきざき凋落することは必至であるという結論であった。もっとも「維新ブームか、国家のいずれかが沈む」というという設定に対する回答として森さんは、大阪「都」構想と関西州の実現は自己矛盾であり、この矛盾に行き詰まり、早晩「維新ブーム」が去るであろうと楽観的な見通しを語ったのである。

 私は、森さんの講演について、2つの点について意見を述べた。

 一つは、君が代の起立斉唱の強制、職務条例・教育条例などにおける懲戒処分による恫喝、思想調査、果ては入れ墨調査などは、それぞれ、人権問題としてその違憲・違法性を追求する取り組みが必要であるが、これらによって、府市職員が人格・思想・人権の担い手としての存在を解体され、武装解除されて、橋下・維新の会の地下鉄民営化・2万人にも達する大量のリストラなどの政策の遂行に抵抗できなくする謀略(またはそのような効果がもたらされる)という点を的確に見抜く必要があるということである。
 森さんは、君が代の起立斉唱などを「羅列」して取り上げるが(「羅列」とい言葉を使ったのは失礼であったか)、それぞれが重大な人権侵害であるという指摘に止まっていると思う。

 2つ目は、森さんが、9頁にものぼる詳細なレジメを用意しながら、そのなかで橋下・維新の会と財界との関係についてまったく言及していないこと(実際の講演でも同様であった)に関してであった。
 私は、この点について、橋下市長は、当初独特のパフォーマンスやマヌーバーのため、財界は、橋下の考え方や彼の提起する「都」構想などの政策に必ずしも支持を寄せなかったが、大飯原発の再稼働問題での橋下市長の再稼働容認という対応、さらに「維新八策」においてきわめて鮮明な新自由主義思想に基づく政策を打ち出すに至って、現在では、財界は、当面する国家的な危機の反動的な打開を、橋下・維新の会に託すという危険な展開を憂慮すべきではないかという意見を述べた。
 森さんは、1点目については、貴重な指摘で教えられるとの意見であったが、2点目については、世上橋下の直接の後援者として上がっているメンバーの名前を挙げながら、その背後にどのような財界人があるか判然しないという中途半端な意見に止まった。 

どうしても書いておくべきこと 昂揚の予感

 7月16日、大江健三郎さんら9人の呼びかけによる「さよなら原発10万人集会」は、東京で17万人(警察発表でさえ7万5000人という)、その他全国各地でこれに呼応する集会が行われ、その規模は安保以降かつてないものであった。
 この集会に先立ち、毎週金曜日の夕方は、首相官邸前にインターネットで知った人たちが集まり、その数は万を超えたことも報じられている。この集まりについても全国で、例えば大阪では関電本社の前で、大小は別として非組織的な参加者による集会が持たれたことが伝えられている。
 しかも参加者は、政党や労働組合、その他既存の団体・組織によって動員されたものではなく、新聞やインターネットで知り、どうしても脱原発の声をあげたいという一般市民であったことも報じられている。ちなみに政党や労働組合の旗がなかったことも特徴的であったという。
 マスコミも引き続く首相官邸前での集会を報じていたが、17日の集会については、朝日新聞神戸新聞も、社会面ながら写真付きで報道し、何人かの参加者へのインタビュー記事まで添えられていた。東京だけでなく、京都など全国各地からの参加者が紹介されていた。
 ドイツなど外国の新聞も、一般に大衆的な意思表示に乏しい日本での脱原発をめぐる新しい動きとして注目していることが伝えられている。

 脱原発をかかげた一連の市民的な行動の盛り上がりは、安保以来の規模であるが、いわゆる組織動員ではなく、自然発生的ではあるが、きわめて自覚的・意識的な参加であることが、大きな特徴であると観察される。
 地震津波の被害だけならば、いったん避難を余儀なくされた住民も、ふたたび郷里やわが家に戻り、家を再建し、土地を耕すことができる。しかし、原発の事故は、単純な地震津波とは異なり、いったん発生すれば深刻な放射能汚染をもたらし、広汎な地域を無人の死の土地と化し、多くの人たちのいのち・生存そのものを脅かす点で、取り返しのつかない異質の事故である。
 このような認識は、2011年3月11日以降、ますます多くの人たちに共通の認識になりつつあり、今後さらに広がるだろう。
 このような問題意識に支えられた市民の意思表示は、問題が、財産の消失などというレベルにとどまらず、いのち、生存そのものに関わるものであるから、どのような弾圧をもってしても、ついに抑止することができない性格を持つものである。
 
 こうして脱原発の行動は、いよいよ広がり、高まることを避けられない。
 昂揚の予感があり、しかもそれは、ついに原発の全面的な廃棄を達成するまで、収まらないであろう。
 しかも、国家や議会、政府など「代表」に委ねてはおけない、自分が直接声をあげなければ駄目だという意識は、脱原発に止まらず、私たちをとりまくいろいろな課題について、次第に多くの市民をとらえていくのではなかろうか。

 追記 7月20日夕方も、約9万人の人たちが国会前に集まったという。

大津市中学生いじめ自殺をめぐって

 私は、かつて、長年にわたって日高教、全教の顧問弁護士であったことがあり、今も大教祖の弁護団のひとりです。そんなこともあって、教育問題一般、いじめ問題には強い関心があります。

 そんな関わりも手伝って、大津市の中学生の自殺問題については、まずは、何よりも中学2年でいのちを断つことを余儀なくされた生徒の追いつめられた心境には想像を超えるやりきれない思いを禁ずることができません。

 生徒のまわりにいた人たち、両親、同級生、友人、大人たちが、生徒のSOSを敏感に察知し、手をさしのべることができなかったのか、割り切れない思いです。

 それにしても、直接最も身近にいたはずの教師は、どうしていたのか。
 まず、教師が子どもたちの様子ー身体はもちろん精神的にも、その背後にある生活環境までーを、日常的にこまかに観察し、わずかな異変ないし変化も見落とさない、そんな配慮が尽くされていれば、事態はまったく別の展開をみていたでしょう。
 ところが、生徒が「いじめ」を受けていた、暴力を振るわれた現場を見ても、単なる「けんか」として処理していたと報道されています。担任の教師や生活指導の教師を含めた会議はわずか15分に止まり、その報告を受けた校長もそれ以上の問題意識をもつことが無かったと言います。生徒の問題をめぐり、職員会議で、場合によっては深夜におよぶような議論を行う状況は見受けられません。教師が、多くの課題をかかえて超過勤務を余儀なくされ、文部科学省の通達で、職員会議が校長の一方的な指示伝達機関として位置づけられ、教育の課題や生徒の問題が校長を含めて白熱の議論の対象となることが、むしろ意図的に排斥される現状といわれます。

 また私が自分の子ども時代の経験も踏まえて思うのは、教師が生徒たちから、身近な存在、相談相手と受け止めていないのではないかという強い疑念です。私の、小学校、中学校、高等学校を通じて、私は担任の先生にさえも、自分から積極的になんらかの相談をした経験がないのです。一、二の先生は、貧しい生活の私に気を配ってくれたことを記憶しています。しかし、おそらく反抗期にあった私にとって多くの先生は、反発の対象でこそあれ、相談相手であるなどという存在として意識した記憶がないのです。
 このような私の経験は、私だけの特殊なものではなく、子どもたちに一般的なものではないかと思います。
 したがって、当該中学生が先生に相談しなかったことは不思議でなく、それにもかかわらず一度は泣いて相談をしたという報道は、中学生のいじめがどんなに深刻なものであったかを示しているのではないでしょうか。また一人の女子生徒が教師に訴えたという報道がありますが、教師や学校がこれらの訴えを受け止めて対応することが出来なかったことは、教師の勤務・過労状態、学校の管理主義の状態を前提しても、なお強い批判を禁ずることが出来ません。

 それにしても、「いじめ」とその結果自殺をもたらした悲惨な報道がなんどとなく繰り返されてきたにもかかわらず、同じ事態が繰り返されるのでしょうか。

大栗博司「重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る」

 今、標題の著作を読んでいます。私の物理学の知識と想像力ではなかなかの難物です。ニュートンの絶対空間と絶対時間から、アインシュタインの相対論への飛躍は容易ではありません。
 しかも、読む時間がありません。電車の中や裁判の待ち時間が読書に充てる時間です。遅々として進みません。土曜日、日曜日、夜間は、しばしばパソコンの囲碁対局に取られてしまいます。囲碁への執着は、一種の依存症です。

 アダム・フランクの「時間と宇宙のすべて」という480頁の大部の著作も、今のところ274頁で止まっています。

 凡庸なので、中学生や高校生の頃には無理だったでしょうが、大学生以降の生活のなかではもっと勉強をすれば良かったという後悔の念しきりです。

 

橋本市長のショック・ドクトリンについて

 橋本市長は、
 ① 個々の職員・教員については、君が代の起立斉唱の強制、職員条例・教育条例における懲戒処分  によるどう喝、思想調査の強要、さらには入れ墨調査、政治活動の自由に対する干渉など
 ② また労働組合については、組合事務所の取り上げ、団交事項の制限、団体交渉における交渉事項  の事前の公表・団交の公開強要、労働組合の宣伝活動に対する干渉など
の政策を矢継ぎ早に打ち出しています。
 これは、クライン・ナオミのいう一種のショック・ドクトリンというべき政策です。
 このような攻撃によって、職員・労働者は、独立の人格・思想、人権の担い手としての主体性を徹底的に破壊され、いわば橋本市長のロボットに改造されるのです。
 そして、当然ながら留意すべきことは、このような攻撃が、橋本市長の個人的な嗜好、自己満足に止まるものではないことです。
 橋本市長のねらいは、このような政策・攻撃によって武装解除された職員によって、「都」構想などの新自由主義的政策の推進することにあると見るべきです。とりわけ、橋本市長は、2015年までに地下鉄の民営化(関西の私鉄への安値での売却)、その他の現業分野の民営化、あるいは独立行政法人化を意図しており、また大阪市職員(約3万8000人と言われます)についてこのような現業関係の民営化等による切り離しとリストラによって2万0000人を削減する計画を推進することにあるでしょう。
 大阪市の職員働組合は、著しく弱体化し、ほとんど抵抗力を失っているのではないでしょうか。さきに、市庁舎内にあった労働組合事務所の立ち退きを求められるやあっさりと事務所を明け渡したショッキングな対応は今も生々しく記憶に残っています。仄聞する限り、長年、市当局となれ合ってきた組合幹部は、たたかうという思想や気概を少しでも残しているのでしょうか。多くの一般職員・組合員の職場と生活の確保について深刻な危惧を覚えざるを得ません。(2012/7/15)

「みつわ通信」の命名の由来

「みつわ」は、「三都和」村の呼び名で1955年(昭和30年)、市町村合併によって消滅した私の生まれ故郷の村の名前です。したがって、「みつわ」は、今は、私の記憶のなかで生き延びているだけです。
「三都和」村は、1889年(明治22年)、三つの部落が和して行くことを誓い合って一つの村を作ったのです。
 戦後も、まだ山林が開拓されず、農薬が使われず、圃場整備が行われる前の田舎は、田圃を縫ってきれいな小川が流れていました。そこには、どじょうやふな、「つぶ」と呼ばれた一種のタニシが住んでいて、ザルですくうことができました、梅雨時などに大雨で田圃や小川が氾濫すると、田圃で養殖されていた鯉が流れ出て時に大漁になることもありました。
 また、山には、背の高い松や雑木が繁り、そこでは「ばやん」、あるいは「ばあやん」(私の小さな頃、田舎の方言で祖母のことです)と一緒に、薪にするために松葉をさらって持ち帰ったものです。山では、「りこぼう」(よく採れたきのこの一種です)やしめじなどのきのこを探すのも大きな楽しみでした。私は、松の根元で松茸を見つけてばやんに褒められた記憶が鮮明に残っています。
 その田舎も今は荒れ、里山の面影はありません。また何十年、何百年も経ったら昔を取り戻すことができるでしょうか。

 「みつわ」は、私のそんな郷愁にちなんだ命名です。
 「素粒子」などというタイトルも考えたのですが、あるいはまた変更するかもしれません。
「みつわ通信」は、私の居場所です。私の存在のあかしとして発信したいと思います。

 私の「みつわ通信」が、なつかしい友人のみなさんに愛されるように念じています。
 
 まずはご挨拶とします。                  2012/7/14  YK